У нас вы можете посмотреть бесплатно 空外上人察順院法話①ビデオ или скачать в максимальном доступном качестве, видео которое было загружено на ютуб. Для загрузки выберите вариант из формы ниже:
Если кнопки скачивания не
загрузились
НАЖМИТЕ ЗДЕСЬ или обновите страницу
Если возникают проблемы со скачиванием видео, пожалуйста напишите в поддержку по адресу внизу
страницы.
Спасибо за использование сервиса ClipSaver.ru
察順院 法話① お念仏の大事なわけをお伝えいたします。 お念仏といっても、浄土宗やら浄土真宗やらと宗派の枠にとらわれて お念仏の訳を取り違えて受け取っておられる方が多いです。 仏教の極楽といっても、キリスト教で天国といっても 本当は同じなんですよ。いのちの世界に二つあるはずはないのです。 私がこれからお話しするのは、 そういう宗教宗派の枠を離れたお念仏のお話をさせて頂くのです。 極楽も天国も大自然のいのちのおかげのことで、 大自然のいのちに二つあるはずないではないですか。 宗派だけで間に合うような手前味噌のごまかしでは通用せんのです。 今十遍念仏していただいた訳は、無量寿経に説かれています。 無量寿というのは永遠のいのちということです。 この百年百五十年のいのちも大事だが、 その命ある間に、死んだらどこへ行くかを決めねばならぬのです。 無量寿経には上下二巻あるが、その上巻四十八願の十八願に出ています。 乃至十念とあります。称えるとは書いていないが、念と書いてある。 称えるも念、即ち心も同じです。私の心が称えるのです。 鳥が飛ぶのも花が咲くのも鳥の心が飛ぶのです。 花の心が咲くのです。それと同じように私の心が称えるのです。 上巻では他力本願を説き、下巻では、「独り生まれて独り死ぬる」と説いてあります。 手前みその自分勝手ではないのです。人任せではないのです。 下巻ではそのあと「善悪自然」とあります。極楽行くような善を積んで極楽へ行くと 書いてあります。それが自然なのです、自分勝手ではないのです。 お釈迦様のおさとりは「縁起」だといわれています。「よって起こる」ことです。 九州宇佐に豊前善光寺という大きなお寺があります。 毎月14日に私はそこへお話に伺ってお念仏をするのですが、 そのご住職さんがその2日前に亡くなられたのです。 懇意にしておったものですから、 私が死んだら空外先生にどうしても葬儀の導師をしていただきたいと 常々言っておられた。どのみち私は14日に行くものですから、 その時密葬の導師をさせて頂いたのです。 私が行くのを待っていたようなものでした。 善光寺の念仏会に念仏しに私の話を聞きに来る人の中に 中村十生という先生がおられて、その方も私にどうしても 葬儀の導師をしてもらいたいと願っておられた。 それもたまたま私の行った時に亡くなられて葬儀を勤めることができた。 みなよって起こっているのです。 口先だけで極楽行くとか行かないとかではないのです。 善も悪も自然なのです。計算ができないのです。 それを阿弥陀さんというのです。 計算の出来ないいのちのことです。 だから善いことをすれば極楽へ行き、悪いことをすれば地獄へ行く。 みな縁起なのです。普段から極楽行くような生活をしていれば、 即ち南無阿弥陀仏の生活をしていたら極楽へ行くのです。 悪いことしていても南無阿弥陀仏と唱えたら極楽へ行けるという ごまかしの口先の他力本願ではないのです。 母親が南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏を喜べば、 自然に念仏を喜ぶ子が育つのです。 みな縁起です。 南無阿弥陀仏というのは、いつも阿弥陀さんと一緒に生活することです。 一遍南無阿弥陀仏と阿弥陀さんの慈悲や知恵の光に照らされて護られて、 永遠のいのちを日々自分なりに全うして生きることができるのです。 それが本当にありがたいのですよ。 一日生きられることが本当にありがたいのです。 それには、毎日南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、阿弥陀さんと一緒に生きるのですよ。 いのちの根源、阿弥陀さんに私どもの心がはまりがつけば、 外の身体も、身体は物ですよ、 でもその身体という物が生き生きと生きてくるのです。 弘法さんもいつも阿弥陀さんと一緒に生きられた方だから あんな素晴らしい字が書けるのです。 心が物の方へ向けば迷うのです。 心がいのちの根源へ向けば、阿弥陀さんの方へ向けば、 自然にその方なりの最善最高の生き方ができるのです。 阿弥陀さんと一緒に生きている人は菩薩ですよ。 観音菩薩は、阿弥陀さんに取り組んだ最高の人の姿です。 南無阿弥陀仏の杖をつけば、だれでも菩薩です。 これがお浄土という生き方ができるのです。 自分が極楽へ行かなければ、永遠のいのちを生きなければ、 何にもならんのです。 聖徳太子が「世間虚仮」と言われた。 みな誤魔化しです。人間のやることはみな誤魔化しです。 だから地獄行の虚仮の生き方でなく、 地獄というところがあるのではないですよ。 自分の心が地獄を作るのです。 そうではなく、南無阿弥陀仏を喜べば極楽の生き方ができるのです。 だれでも南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ですぐできる。 花が咲いても鳥が飛んでも皆この命の根源にはまりがつかねば出来ないのです。 南無阿弥陀仏は、いのちの根源にはまりがついて、 ケンカしないことです。はまりがつけば対立がなくなるのです。 自分勝手でなくなるのです。ばらばらでなくなります、生かし合うのです。 それを無二といいます。 全ての対立を離れる最高の薬は、南無阿弥陀仏が一番の薬です。 心で決まるのです。自分の心がいのちの根源にはまりがつくことです。 もう一席お話をさせて頂きます。南無阿弥陀仏