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《奨励要旨》 コリントの信徒への手紙一12章は、手紙を書いたパウロがコリントの信徒たちを正しい道に引き戻すための指導をしています。当時のコリントの人々は…今朝のお話の結論部分とも言えますが、その正しい道とは…それは賜物を生かし、助け合い、教会を支える、何よりも礼拝を守る。ということでありました。今朝は、『信徒の手引き』(日本キリスト改革派教会大会教育委員会著 一麦出版社 2014)からも抜粋しながら、皆さんとともに礼拝を守る大切さを学んでいければと思います。 パウロが勧めるコリントの信徒たちを正しい道に引き戻すための指導、最初の12節13節に、私達がまずキリストのものになる為、キリストに繋がるための基準が、記されております。それは何でしょうか?それは、13節後半にあります「洗礼」であります。キリストに属するための基準は、人間の能力や優秀さではなく、また一人一人に与えられている賜物でもなく、聖なる「洗礼」なのであります。洗礼はあらゆる人種や差別をも超越して、キリストと私たちを一つの体に結び付けられます。 また、ここに隠れている大事なことには、クリスチャン同士の平等性の基盤があります。人は、洗礼によって、キリストに結び付けられた「キリストのもの」になるという点では、すべて平等なのです。ここには優劣など存在しません。教会では、だれでも他の人より自分が「劣っている」と感じる必要はなく、逆に「優れている」と思いあがってもいけないのであります。パウロは、この箇所で、洗礼によってキリストに結びつけられた一人一人が、集まることによって、これが礼拝の基準になることを語っていたのであります。 ここで、信徒の手引きを引用します。20pの「信仰生活の中心としての教会」より抜粋してお読みします。お持ちの方は、後でご確認ください。「神の民としてのキリスト者は、キリストのからだである教会の一員、その部分です。信仰の生活は、キリストが聖霊を通して満ちておられる教会を別にしては、成り立ちません。教会は文字通り信仰生活の中心です……教会生活の心臓部は主の日の公的礼拝です。主の日の公的礼拝を軸にして、祈祷会や教会の諸集会の恵みにあずかり、キリスト者は御国へ向かっての信仰の旅路を歩むことができます。」 主の日の公的な礼拝を軸にして、と表現がありましたが、これについては信徒の手引きの27pにこうあります。「主の日の礼拝とは何か」 礼拝とは何でしょうか。それは復活の主イエスとの出会いと交わりです。復活された生ける主ご自身とお会いし、交わりを深め、豊かな励ましや慰め、支えや導きをいただいて、それぞれ自分の持ち場へと遣わされていきます。礼拝は、恵みと祝福に満ちた、主との出会いと交わりの時です……礼拝において、神ご自身の大きな喜びと出会い、それに包まれる。その結果、私たちも喜ぶ者、喜びにあふれる者として立つ事がゆるされます。 礼拝では、聖書から神のことばが語られる。 生きた神の御言葉。 牧師が語る生きた神の御言葉 牧師の書かれた生きた神の御言葉の文章 神の御言葉の解き明かしとして説教 これらすべてが、神様から私たちへの恵みであります。 では、これに対して、私たちはどのように反応、もしくは応答すれば良いでしょうか?それは、5つであると思います「賛美、祈り、信仰告白、御言葉の説教を聴く、そして献金感謝」です。これらはすべて礼拝の中で行っておりますね。私たちから神様からの恵みに対する感謝と献身の応答であり、これらは、すべて行動としてあらわすものです。 中でも、礼拝における神の言葉は、ただ聞くだけではなく、耳から聴くのみに集中する。目で見ながらも当然ですが、耳から聴くのみに集中する事がとても大事な事なのです。せいぜいノートにメモする程度で、耳と目で集中して聴く、これが神様の御言葉を受けるマナーだと思うのです。今はコロナ禍の中での礼拝ですので、礼拝に参加が叶わない皆様におきましては、耳から聴くのみに集中ではなく、礼拝説教文章から集中して読む、でも良いのであります。そうすることによって、神様が私たちとの間に、お互い双方向の応答を生み出してくださいます。神の恵みが、民の反応を生み出すことによって、真実な意味での神礼拝が完成されるのであります。 また礼拝は、神様が喜んで私たちを迎い入れてくださる、招いてくださる、ひと時なのです。毎週神様から招待状をいただいて礼拝に参加しているのであります。招待状に書かれている時に、私たちは全力で集まる……招待者が喜びますね。 そして、主の日の礼拝があって、その礼拝を中心に、初めて様々な活動が展開されます。代表的なものとしては4つあります。 1、祈りによる支え合いとして「祈祷会」があります。 信仰とは、神様と生きた交わりであり、そこには聖書から読み取る御言葉の恵みと、御言葉に応答しての祈りがあります。日常の個人の祈りが、祈祷会で共に祈ることにより、信仰の訓練となります。共に祈ることにより、労苦を共にし、分かち合う事により、豊かな交わりが生まれます。現在はコロナ禍において、リアルに共に集まることが難しいですが、最近ではリモートなどの技術が解決してくれる時代にもなってきております。 2、学ぶ集いとしての「教会学校」であります。 今朝も行いましたが、子どもたちに向けて教会学校だけが、ここで言う「教会学校」ではなく、南浦和教会の場合ですと、婦人会、青年会、男子会、も「教会学校」に含まれます。言い換えると、各世代の集まりがすべて教会学校、御言葉を学ぶ場であるのです。 3、おぎなう、支え合う…奉仕であります。 今朝の箇所の14節以下では、パウロは身体の部分を用いて、各部分が補い合って、一つの体となる。そのためには、体の中では、他よりも弱い部分があって良いというのです。さらに23節以下では、恰好が良い悪い、見栄えの良い悪い、自分の身体の事でどうしてもありがちな、気にしてしまう表現が展開されております。26節を確認しましょう「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」 この共に苦しみ、共に喜ぶ、が、おぎなう、支えあう事、愛の奉仕の技ではないでしょうか。愛の業による仕え合いとしての「奉仕」とは、……共に礼拝する兄弟姉妹一人ひとりの弱さに気づき、痛みと関心と愛が生まれます。自分の事に精一杯で、他人を顧みることなく、自分の殻に閉じこもってしまう信仰は、相互の奉仕によって、変えられます、そして成長します。またさらに奉仕の在り方も重要なところです。 罪びとである私たちには、自分にとって好ましい奉仕には喜んで取り組み、一方、気に入らない奉仕には関わろうとしない傾向が、だれにでもあります。誰も手を付けたくない奉仕の分野に目を向けることは、教会に対する新たな自覚と責任をもたらします。気乗りしない働きを楽しく担う工夫も生まれます。この事は、私たちの生活、社会における時間の使い方、創意工夫や、自己管理の訓練にもつながっていきます。選り好みの無い、自分らしい奉仕の道を発見されることで、教会生活は更に充実します。 4、献金も奉仕の道です。 コリントの信徒への手紙二 9章7節にこう書いてあります「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」献金も奉仕の道であり、神様との祈りによって、献金は献げられ、神様の御前に教会は維持できます。 「全集中」という言葉があります。一国の総理も国会の答弁で使っておりましたが、もともとは、大ヒットアニメ映画の決め台詞から、世の中に浸透している言葉であります。 ここで敢えて使いますと、 全集中で礼拝に臨む、全集中で礼拝に臨むことにより……奉仕の道が備えられる。各会(婦人会青年会男子会)の学びと交わりが備えられる。すべて、礼拝を守ることによってのプラスアルファ、与えられる特典ともいうべきところでしょうか。 もしも、礼拝が抜け落ちて、奉仕や各会(婦人会青年会男子会)の学びと交わりだけが残ったとすると、どうでしょうか?その奉仕や各会の学びと交わりは成り立つのでしょうか?それは本当の意味では。成り立たないと思うのであります。なぜならば、神様が私たちを招いてくださった礼拝が行われる教会での交わり、奉仕でありますから、礼拝を抜きにして成り立たないのではないでしょうか? また余談にはなりますが、各会の一部では、会費を集めて活動を行っています。私は個人的にはこの会費という名称に疑問を感じております。会費ではなく献金であると思うのであります。 その証としては、毎年中会へ、教会の一年間の財務報告を行っているのですね。その中で各会の集めた会費は、教会全体の献金の一部として報告をしています。「会費という名目の献金」なのです。会費の意味は、礼拝に寄らない集まり、教会以外での集まり。サークル活動などでは会費で良いのでしょう。 最後に聖書に戻ります。27節から今朝の最後の部分ですが、27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」は、お読みしました最初の箇所である12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」と同じ意味でありまして、より断言した力に満ちた表現になっております。 教会の中でのあらゆる持ち場があって、キリストの体の一部である私たちは、それぞれの部分を生かし、互いを尊重し、愛してより大きな賜物を受けるために、熱心に努力しなさい。と、結んでおります。これは、現代の教会に集められている私たちへのメッセージなのです。神様は、もっと大きな賜物を受ける様に熱心に努めなさい。と言われております。 神様の愛は、限界が無く、あふれるばかりの愛で私たちを見守り、待ってくれています。私たちは、神様からの一方的な愛を、教会の礼拝で、御言葉の説教をもって、喜んで受けることができます。この恵みに感謝して、またこの恵みを多くの人と分かち合うことができます様に、日々祈り、歩んでいきましょう。また次週の礼拝も神様が招いてくださいます。 ≪お祈り≫ 神様、尊い御名を賛美申し上げます。 夏の暑い日にあって、私たちを今朝も御前に集めてくださいまして、感謝申し上げます。 今週もどうぞ私たち一人一人が、神様につながる事によって、毎日を守ってくださり、導いてください。私たちは様々な誘惑や、心を引きずられる瞬間が、コロナ禍の毎日に多くあります。 神様の前には平等な私たちでありますから、様々な思いから解放されますように、そして一人一人に心の平安が与えられますように、お祈りします。 大場先生ご夫妻の夏休みの歩みを祝福の内にお守りください。 イエス様のお名前を通してお祈りします。 アーメン 2021.8.22 朝拝奨励 豊島師