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旧制恵那中学(岐阜県恵那市)を3年で中退し、1945(昭和20)年4月、新設の海軍経理学校予科(奈良県橿原市)に進んだ。 経理学校は食料、経理、庶務など担当の主計将校を育てる。旧制中学を卒業して入るが、学徒動員で中学生の学力が落ちており、海軍は1年制の予科を設け鍛えようとした。 ◇ 当時の中学は全校軍志願の運動まであり、教師が一人ひとり面接し、「お前どうする」と勧めたものだ。 入ってみれば、直前まで岐阜県可児市の戦闘機工場に動員され、豆かす混じりの飯で腹をすかしていた僕には、別世界だった。一日3合の飯が食べられ、肉も魚も野菜も甘い物まで出た。爆薬を抱いて戦車の下に飛び込む訓練や防空壕(ごう)掘りもしたが、国語、英語、数学、化学など勉強がしっかりできた。教官で軍出身の武官の中には東大や京大の学徒出陣の予備士官がいたし、文官は徴用の中学教師らだった。受験英語で有名な人もいた。 外出できる休日もあり、奈良の大仏も見に行った。戦争のさなかでも日常があった。僕らは准士官扱いで一般の兵隊より上。年上の兵隊から敬礼され、恥ずかしかった。 学生600人は各地から集められ、朝鮮、台湾、旧満州からも来ていた。岐阜県は7人だった。1年制で上級生がおらず、よく聞く先輩のしごきはなかった。 新聞は読んでいた。空襲、沖縄失陥、原爆も知っていた。でも焦りはなかった。本土決戦のかけ声はあったが、実感がなかった。予科の後、経理学校の2~3年があり、実戦はその先。教官も「お前たちは進む道が決まっている。しっかり勉強しろ」と言っていた。物資を扱う主計だけに、先を見通していたのか。 ◇ 8月15日は正装して玉音放送を聴いた。冷静だったな。すぐ「中学に戻してもらう」と友人に話していた。ただ19日、2人の教官が600人全員を殴る事件もあった。「貴様らたるんどる」と。殴る方も大変で、翌日、教官は手に包帯を巻いていた。その教官の一人は戦後、京大に入り直し、町医者になった。 22日、菊の紋章を焼く決別式があり、解散です。女学校生徒を動員して縫わせた大きなリュックサックに衣服や毛布、食料を持たせてくれた。旧坂下町(現・中津川市)の家に帰ると、母が「よう帰ってきた」と、ぽろぽろ涙を流した。 9月、恵那中学に復学した。生徒大会で教師を糾弾した。軍志願を勧めた教師が、いまは民主主義を説く。けしからん、というわけだ。食べ物の恨みもあった。でも僕は責める気になれなかった。節操のない教師もいたが、人間は弱いもの。僕の場合、予科で勉強しただけ学力がつき、46年春、旧制四高(金沢市)に進学できた。 坂下町のいとこでおとなしい女性が当時、民間の神風特攻後続隊に志願していたと後に知り、驚いた(8日付朝日新聞名古屋本社版社会面)。坂下でも開戦直後は提灯行列があり、僕も出発する際は坂下駅前で40~50人にバンザイで送られた。あの雰囲気の中で思い詰めたのか。時代の複雑さを考えざるを得ない。