У нас вы можете посмотреть бесплатно 後醍醐帝皇子・懐良親王御陵 〜龍護山千光寺・懐良親王御命日8月8日に【一般公開版】 или скачать в максимальном доступном качестве, видео которое было загружено на ютуб. Для загрузки выберите вариант из формы ниже:
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なんと、この日8月8日が懐良親王の御命日であったとは! 楠公研究会では、今まで関西中心に調査取材を行なってきたが、今般、初めて、豊後竹田と久留米という九州地方に於ける二大楠公崇敬地にて現地調査をさせて頂いた。 楠公父子の殉節後、九州地方では、懐良親王を先頭に官軍(南朝)勢力が大いに活躍。 特に、南北朝期に於ける九州地方最大の戦い・筑後川合戦は有名であるが、今般の九州訪問を機に、九州地方の南朝聖蹟を取り上げさせて頂く。 今般も、多くの不思議なお導きを頂いた。 晴天に轟く雷鳴に始まり、何よりも、懐良親王御陵墓を参拝させて頂いた8月8日が、偶然にも懐良親王の御命日であった事にも畏怖の念を禁じ得ない。 後醍醐天皇第九皇子・懐良親王(かねながしんのう)は、延元3年(1338年)、僅か9歳にして九州へ官軍(南朝)の征西大将軍として派遣された。 正平3年(1348年)には肥後の菊池武光卿に奉ぜられ、菊池氏、阿蘇氏の軍勢支持による肥後託摩原(たくまばる)の戦いで足利尊氏の私生児・直冬を、次いで正平14年(1359年)には筑後大保原(おおほばる)の戦いで足利方・少弐頼尚を破り、正平16年(1361年)には大宰府を制圧、九州における南朝(官軍)全盛期を生み出した。 また、明国に対しては、後醍醐帝、後村上帝の名代として「日本国王」たる立場に於いて良懐(りょうかい)と号し、対等外交という国威を重んじた交易を推し進めた。 これに対し、交易での暴利獲得を目論む足利氏は、懐良親王から日本国王の称号を掠取し、自身こそが国王として明と交易せんと画策、まずは懐良親王を奉じる九州官軍勢力を滅ぼさんとし、これを攻撃した。 文中元年(1372年)、北朝の九州探題今川了俊によって大宰府は足利方に奪取される。 官軍側は高良山などに拠って抗戦したものの奮わず、弘和三年(1383年)、懐良親王は薨去される。 (※千光寺の寺伝では、正平14年8月8日、筑後川合戦に受けた深傷が元で薨去されたとする) 間も無く、南朝勢力は劣勢となり、明徳三年(1392年)、大覚寺立会のもと、南北両朝交互に神器を継承する事を条件に一時的に和約が成さる事となる。 しかし、この和約は早々に足利義満によって反故にされ、その後、織田信長、豊臣秀吉によって天下が統一されるまで、南北両朝を奉っての群雄割拠たる動乱の世が続く事となる。 更に、義満は、天皇の臣下という立場をとらず、事もあろうに自らを「日本国王」と騙り、明との交易を試みた。 そして、1401年(応永8年)、「日本国王源道義」宛なる明皇帝・建文帝が義満を日本国王と認める内容の詔書を受け、義満は京都北山の邸宅に明使を鄭重に迎え、自ら明使に拝跪して詔書を受け、日本国が明へ隷属する意を表明した。 足利義満によるこの不敬極まりなき蛮行により、聖徳太子以降懐良親王に至るまで、中国との対等外交に努めてきた我が国の権威は失墜する事となる。 無知とは国家国體を崩壊せしむる恐ろしいものである事を、この足利氏の蛮行から我々は知らねばならない。 当時の武家諸侯らが国體について無知であったからこそ、かような日本人にあるまじき反逆行為を許してしまったのだ。 我々は臣民として、今後二度と、かような逆臣を国家の指導者に据える事の無きよう、強く肝に銘じねばならぬ。 これは寛容さの大小の問題ではなく、国家的哲理と日本民族の道義の問題である。 扨、千光寺を当初保護した在地豪族にして千光寺大檀那・草野氏の栄枯盛衰の歴史は以下の通り。 長寛二年(1164年)、草野永経(ながつね)が肥前国高木より筑後に入国し竹井城に居城してより、歴史は草野氏とともに展開することになる。 草野氏は源平の戦いで、大宰府に入った平家に対して各地を転戦して源氏側を勝利に導き、文治二年(1186)源頼朝から御井・御原・山本など三千町歩の所領を賜った。 永経の子永平も源平合戦で功があり、筑後国在国司・押領使両職を安堵され、さらに肥前国鏡社大宮司に補任された。 かくして、草野氏は筑後・肥前にまたがる一大勢力となり、中世を通じて筑後・肥前を舞台に活躍した。また、永平は筑後守に任じられ豊富な財力を背景として、千光寺や祇園寺を建立するなど内政にも力を尽くしている。 草野氏は南北朝前期には公的文書に北朝年号を用いている事からも判るように、北朝方(足利尊氏方)として戦い、その後、観応二年(1352年)の観応の擾乱(じょうらん)では一時期足利直冬方に、更に、文和二年(1353年)からは南朝方につき菊池武光から軍忠状の証判を得るなど、一族の生き残りを懸けた戦国動乱の世相を如実に顕す動きをしているのが草野氏の特徴といえる。 戦国期末の筑後は、大友、島津、龍造寺の抗争により、弱小の豪族は鳥合の集と化していた。天正五年(1577年)草野氏末裔・家清は、この戦乱を生きるため吉木八幡宮の裏にあった父祖代々の居城・吉木竹井城に守備に不安を感じ、より強固なる発心城を築城する。翌年、大友勢が日向耳川の合戦で島津勢に大敗し、筑後の豪族の大半は龍造寺に服属。 天正十二年頃、大友宗麟に背いた家清は一族を率いて発心城に籠城、高良山良寛や秋月長門守の軍勢による3年にも及ぶ攻撃を受けたが、一向に落城せず「九州千早城」なる異名を誇った。 慶長六年(1601年)には近江出身の武将・田中吉政が筑後国主として入国。 田中氏は祖神として崇めた郷里・近江八幡・日牟礼八幡の御神紋「左三つ巴」を家紋に掲げて八幡神を景仰する傍ら、吉政は浄土系宗派の仏教徒でありつつキリスト教も信仰(洗礼名はパルトロメヨ)、並行して神道と仏教も篤く尊崇し、有力寺社の再建に大いに尽力する。 また、近江源氏高島氏族でありつつも楠木氏を尊崇し菊水紋を崇め、更には、新たにもたらされた外来宗教たるキリスト教も併せ信仰し祀った。 これは田中氏のみに留まらず、例えば高山右近や大村純忠等、キリスト教をも崇敬し洗礼を受けた人々に共通する信仰であり、世界に類を見ぬ日本民族固有の宗教観・神仏習合の理念を具現した非常に高邁なる日本人の神観念であり崇高なる精神性である。 その後の筑後は、有馬豊氏が筑後北半二十一万石の大名として入国し、幕末に至る。 (※楠公研究会有料会員の方は、会員専用グループページにて全記録動画を配信させて頂いておりますので、そちらからご覧下さい) ご丁重なるご教授をくださり、また、千光寺に伝わる大変貴重な御本を賜りました千光寺御住職様、久留米市の南朝聖蹟へご案内を賜りました大和塾の伊藤塾長様、塾生の織邊様、小林様に心より厚く深謝御礼を申し上げます。