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みなさん、こんにちは! 山ちゃんです。 久しぶりにまとまった雨が降りました。 この地方もしばらくからっからだったので、 さすがに我が家の湧き水もちょろちょろの状態だったのですが、 今日は少し回復しました。 全国的に干上がったダムから水没した村が出てきたなんてニュースを頻繁に聞きますが、 こちらも東三河地方の水がめ、宇連ダムの様子が連日伝えられていて、 見物人がドライブしてきては干上がった湖底に降りて、 幻の村を歩き回っています。 豊橋近郊は農業地帯で特にキャベツの出荷量は日本一で、 現在奥三河の2つのダムから豊川用水を使って水を引いています。 僅かに雨が降ったとはいえ、現在貯水率が2.1%まで下がっていて、 確かにこれは農家にとっては死活問題です。 豊川用水は、奥三河の山々で降った雨を宇連と大島の二つのダムでため、 水路によって遠く渥美半島や浜名湖近辺まで送っています。 宇連ダムの水は、およそ一日かけて川や幹線水路を流れて、 約100km下流の渥美半島の先端まで届けられます。 豊川用水の最大の特徴は、宇連ダムの水が渥美半島の先端まで、自然の力(重力)だけで流れていくことです。 途中で、電気を使わないので、施設を管理する日常の経費が安くすんでいます。 しかし、そんな豊川用水もほぼ干上がってしまい、現在市街地では節水制限がでています。 このまま渇水が続けば、特に深夜の時間帯に断水しなければならなくなるかもしれません。 自由に水が飲める世界的に希少な国である日本であっても、 改めて水の大切さを再認識しますね。 こうなると、この地図で分かるように、現在この近くに建設中の設楽ダムの必要性がますます増しています。 完成まであと10年近くかかるそうですが… さて大寒波から一気にあったかくなってきて、 良く見ると枯草の間から春を知らせるスイセンの芽が出てきました。 もう一度来週朝の気温は氷点下に下がるようですが、 3月半ばには15℃を超えて、霜も降りなくなるようなので、 いよいよ今年も野菜の種まきシーズンの到来ですね。 とりあえずできるだけ早く確実に野菜を収穫したいので、 去年うまくいった大根とチンゲン菜の種を注文しました。 今日もまた土中保存してあった里芋を掘りだしましたが、 さすがに我が家の食糧の青物野菜が無くなってきました。 里芋はたくさんありますが、 昨年6月から食べ始めた玉ねぎはあと一か月分くらい、 そして大根もあと2週間分くらいでしょうか。 どうやら5月の収穫までは、ちょっと持ちそうもありませんね。 そして、玉ねぎの追肥をしました。 どうやらトンネルシート内の玉ねぎは無事に冬を乗り切ったようで、 元々細めの苗だったので心配しましたが、 みんな元気に育っています。 これから温度上昇とともに日一日大きくなっていくと思いますので、 そのための最後の追肥です。 僕の場合は、すでに玉ねぎの根がかなり伸びていると推測されるので、 根元ではなく畝の端に沿って溝を掘り、 そこに堆肥を入れて土をかぶせています。 これで、この後3か月が勝負ですね。 去年収穫した玉ねぎは食べきるのに10か月かかりましたが、 今年もそれ以上の収穫ができるのでしょうか? ということで、今日は雨も上がったので、前回お伝えした通り 家のウッドデッキのペンキ塗りをしたいと思います。 12年前に家が完成したときはこんな感じだったのですが… 当時はペンキにもかなりこだわって、 格子を赤に、 そして板を黒に統一していました。 落ち着いた黒と元気の出るロックンロールの赤のコラボだ、 なんて意気込んでいましたね。 でも、今はこんなにペンキもはがれてしまい、 僕も間違いなく年を取って、ロックンロールし続けるのもちょっとしんどくなってきました。 ペンキの禿げた外見はともかく、これ以上板が腐食すると危険です。 これまではまずペンキだと木材にしみこまなくて剝がれやすいので、 最初にあえて墨塗料を塗って、 数年たってからその上に黒のキシラデコールを塗っていました。 格子の赤は、キシラデコールに赤がないので、 エナメルを塗っていましたが、 これがすぐに日光ではがれてしまうんですよね。 だから何回も塗り替えていました。 でも、キシラデコールは1斗缶(16l)3万円以上して今は手が出ませんし、 僕も落ち着いた色の良さがわかるようになったので、 今日は探しまくって一番安い2lで4000円の、 この濃い灰色のペンキを塗ることにしました。 なんとか毎月これくらい少しずつペンキを塗って補修していきたいですね。 ということでこんな感じになりましたが・・・ うーん、これだとまだ下塗り状態ですね。 やっぱり、2度塗りしないと艶が出ません。 こうなったら、キシラデコール1斗缶(16l)を分割払いで買って10回に分けて使う方が、経費も安くなり、より質のいいペンキ塗りができますね。 早速、来月からやってみましょう。 暖かい陽を浴びながらペンキ塗りをしながら思うこと・・・ それは『家ってなんだろう』、ってことですね。 自分にとって完全に自由を感じられる空間、枕を高くして寝られる場所でしょうか? 僕にとっては、この山の敷地も含めて、すべてが『家』という感覚です。 都会であれば、本当に自分が自由になれる場所は、 アパートの部屋だけであったりしますが、 たとえお金が十分にあって壁の分厚いタワマンに住むことができたとしても、 またある程度臨家と距離のある一戸建ての住宅に住むことができたとしても、 それなりにいつも気を使って、緊張感がなくなることはないと思います。 なかなか、本当に自由な空間で枕を高くして寝られる場所を見つけるのは難しいですね。 僕の場合は、生まれてから高校まで約17年間、築50年の田舎家に住んでいました。 何もない家でしたが、 大正時代の曇りガラスと障子を組み合わせた古い建具に囲まれた居間の畳に寝転がって、 真っ黒に煤けた天井の木目模様を飽きもせずずっと見つめていました。 とにかく言葉で言い表せない程落ち着く家でした。 子供のころ遊び疲れて帰ってくると、死んだように眠りこけたものです。 僕にとってこれまであんなに熟睡できる場所はありませんでした。 家そのものが母親の胸の中のような感じだったんですね。 そして東京に出て最初に住んだのは練馬の西武柳沢の下宿の3畳一間。 机を置いて布団を敷けば一杯ですね。 隣は浪人生だったので、夜は彼が深夜ラジオを聴きながら、がり勉しているので、こちらは音も立てられず、なかなか眠れなかったです。 家主のおばさんが朝夕食事を作ってくれて、確か家賃は1万円もしなかったんじゃないでしょうか。 なかなか都会になじめず、ただただドギマギして落ち着きがなく、自分の自由になれる場所はそんな3畳の空間だけでした。 次に移り住んだのが、原宿の新聞販売店の2階の大部屋。 5~6人の10代の学生たちと一緒に、ここに住んで朝夕新聞を配っていました。 ここも朝夕ご飯を出してくれて、3万円の給料がもらえたので、本格的に自活を始めました。 若い男ばかりの大部屋ですから、熱気むんむんで落ち着くような場所ではなかったですね。 しばらくして東海大学の学生と一緒に店が保有する4畳半のアパートに入れてもらいました。 大まじめの勉強家の彼に『悪いこと吹き込むなよ』、と店主の親父さんに言われてました。 僕はそんな風に思われてたんですね。 どちらもプライバシーなしの2年間。 とても『家』とはいえませんよね。 若さと田舎者だったので都会への憧れが人一倍強かったからやれたんでしょう。 次に移り住んだのは代々木八幡の1DK。 何と20歳で同棲。 何でそうなったのか、未だによくわかりません。 とにかく若さの勢いだけで生きてました。 月並みですが、都会の淋しさに愛の巣が欲しくなったんでしょうか? 家賃は1万5千円くらいだったかな? やがて子供が生まれて結婚。 ということでアパートも変えて、やむなく二子玉川の2LDKへ。 今のオシャレな二子玉とは違い、畑の中の昭和の典型的な2階建てのアパートでした。 ベビーカーを押していくと、よく野良仕事をしていたおばあさんがニンジンをくれたりしました。 20歳そこそこのお父ちゃん、せっせと植木屋さんの仕事して家に帰って子どもの顔を見る、 そんな伝書バトみたいな生活をしていました。 家賃は4万円くらいだったと思いますが、間違いなく新しい家族の家でした。 この当時の家は、僕にとって憩いのために帰る場所でしたね。 その後、事情によって新宿の2か所に移転することに。 1つは新大久保と歌舞伎町の間にある百人町、 今は外国人街になったり、公園の周辺は色んな問題が起きているらしいですが、 当時はラブホのネオンサインが目立つだけでそれほど危ない場所でもありませんでした。 古い雑居ビルの2階に住むことになったのですが、 特に夏は異常に暑くて、窓を開けると、 女の人の悲鳴や叫び声が聞こえてくるような、 世田谷とは打って変わった緊張感一杯の部屋でした。 そして東京で最後に住んだのが、 高層ビルが次々とたてられていた西新宿の中央公園近くの賃貸マンション。 家賃5万円の1Kで、マンションとは名ばかりの、 お隣の話し声が聞こえてくるような部屋でした。 まさに箱に入っているような感じで、 ドアを開けても自分の『家』に帰ったという安心感はありませんでしたね。 こうなると気が休まることはありません。 今の東京はどんなに小さな部屋でも、家賃が軒並み10万円以上になっているそうですが、 それでも皆さん東京を目指して後から後からやってきます。 東京の新築マンションを買う人の90%がローンだそうですが、 『はたしてローンを組んだ部屋の中に本当の安らぎがあるのかなあ』、 などと思ってしまいます。 『計画された人生に自由があるのかなあ』、とも。 でも、今はそれが標準になってしまっているんですね。 僕には、とても、もう一度東京で生きる気力はありません。 70年代の東京だったからこそ、僕でも生きられたんでしょう。 さて、東京での13年の生活の後、僕が向かった新しい場所はニューヨーク。 何も知らない僕がノースカロライナからグレーハンドバスに乗ってタイムズスクエア近くのバスターミナルに降り立って、 最初に向かったのがエンパイアステートビル近くにあるYMCAでした。 まずあまりの汚さに愕然としましたね。 特にシャワー室に入った時は裸足で歩くのにも躊躇しました。 のどかなノースカロライナのウィンストンセーラムとのギャップはとてつもなく大きかったです。 後で分かったのですが、YMCAは場所によってかなり違うらしいのです。 最悪の選択だったのかもしれません。 たまらず3日でここを出て、新聞で見つけたのが、 ちょっとやばいエリアにある『ヘルズキッチン』地区のアパートメントホテル、 その名も『ワシントン・ジェファーソン・ホテル』。 週払いでなんと70ドルだったと思います。 『ニューヨークのど真ん中、ブロードウェイの劇場街のすぐ隣にこんなところがあるんだ!』、と驚きました。 一応エレベーターがついていて、しかもベッドメーキングもしてくれるんです。 ところが一晩寝て起きたら、身動きできなくなりました。 6階建ての超古い建物の4階だったのですが、 なんとコーヒーカップの周りはゴキブリだらけになっていました! いつ倒壊しても不思議ではないような建物の内部は木造、 明らかに腐食が進んでいるのがわかります。 どうやらゴキブリが出ないのは最上階だけらしいのです。 一応古い冷蔵庫がついているのですが、この部屋の広さは10畳くらいでしょうか。 夜は緊張して寝汗をかきました。