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私たちは陰謀が大好きである。正確に言うと、陰謀の存在を想像したり、陰謀の真相を解き明かそうとしたりすることが大好きである。たとえばケネディ暗殺は、没後半世紀を経た今でも、根強い人気を誇る。書店に足を運べば、雑誌や単行本などで、ありとあらゆる「陰謀」について知ることができる。陰謀の全貌を鮮やかに「解明」した本は、「まるで上質の推理小説のようだ」などという讃辞を受ける。 日本中世史の分野における、陰謀の横綱は「本能寺の変」であろう。本能寺の変の「真相」を論じた本は枚挙に暇ない。出版された本の数だけで考えれば、本能寺の変こそが日本中世史の最大のテーマと言っても過言ではない。 だが日本中世史学界において、本能寺の変はキワモノでしかない。日本中世史を専門とする大学教授が本能寺の変を主題として刊行した単著となると、藤田達生氏の『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書、2003年、2019年に講談社学術文庫に収録)ぐらいしか思い浮かばない。書店や図書館には本能寺の変の真相に迫っている(らしい)本があふれているが、実のところ、あれらの本の著者は、日本史学界の研究者ではなく、歴史作家や在野の歴史研究家なのである。 誤解しないでいただきたいが、別に私は「大学などの研究機関に籍を置く研究者が偉く、それ以外の研究者は問題外である」と言いたいわけではない。在野にも優れた歴史研究者は大勢いる。そういう話ではなく、学界の興味関心は本能寺の変などの陰謀にはほとんど向けられていないということを強調したいのである。 極端に言えば、学界の研究者の多くは、陰謀の研究を低級だと見下している。陰謀についてあれこれ考えるなどというのは、素人のやることであって、プロの研究者はもっと高尚な研究をやるべきだと思っているのだ。日本史学専攻の学生が、卒業論文では「織田信長の楽市政策」を扱いたいと申し出ても何の問題も起こらないが、「本能寺の変の黒幕は誰か」について書きたいなどと言おうものなら、指導教員に叱られるのがオチである。歴史上の陰謀をめぐる議論ほど、歴史学界と一般社会との温度差が顕著なものはあるまい。 それも無理のないことである。本能寺の変の歴史的意義は、織田信長が死んだこと、そして明智光秀の討伐を通じて豊臣秀吉が台頭したことにある。つまり結果が大事なのであり、光秀の動機はどうでもいい。仮に明智光秀を操る黒幕がいたとしても、その事実は後世に何の影響も与えない。明智光秀の単独犯行か共犯者がいるのかといった議論は、謎解きとしては面白いかもしれないが、学問的にはあまり意味がない。前掲の藤田氏の著作にしても、織田信長の権力をどう評価するかという点に主眼が置かれていて、単なる興味本位で書かれた本ではない。 しかしながら、人々が日本史の陰謀に心を惹かれている以上、学界の人間も研究対象として正面から取り上げる必要があるのではないだろうか。前述のように、優れた在野の研究者は確かに存在するが、悪貨が良貨を駆逐するというか、自称「歴史研究家」が妄想を綴ったものが大半を占めていることも、また事実である。それらの愚劣な本を読んで「歴史の真実」を知ったと勘違いしてしまう読者が生まれてしまうのは、憂慮すべき事態である。 もちろん、「陰謀の〝真犯人〟探しは一種の〝遊び〟であって、そう目くじら立てることもないではないか」という意見もあろう。確かに、本能寺の変の「黒幕」が豊臣秀吉だろうと徳川家康だろうと、現代を生きる私たちには大した問題ではない。 けれども、冒頭で述べた通り、私たちは数々の陰謀論に囲まれて生きている。陰謀論に引っかからないためにも、何が陰謀で何が陰謀でないかを見極める論理的思考力を身につける必要がある。本講義では、様々な陰謀論・黒幕説の問題点を歴史学の立場から愚直に指摘していく。「ロマンを壊すな!」という方はご視聴をご遠慮いただきたい。