У нас вы можете посмотреть бесплатно 語り継ぐ戦争 引き揚げ者、一度に3千人 引き揚げ船の航海士だった 小島真可 или скачать в максимальном доступном качестве, видео которое было загружено на ютуб. Для загрузки выберите вариант из формы ниже:
Если кнопки скачивания не
загрузились
НАЖМИТЕ ЗДЕСЬ или обновите страницу
Если возникают проблемы со скачиванием видео, пожалуйста напишите в поддержку по адресу внизу
страницы.
Спасибо за использование сервиса ClipSaver.ru
戦争中、商船学校を出て大阪商船に勤めた。長崎の造船所で米国やオランダの捕虜の作業を監督した時期もあります。食糧難で捕虜の顔色は悪かったな。戦後、実家の岐阜市に戻り、岐阜県庁でアルバイトをしていたら電報が来た。海外の日本人の引き揚げ船で働け、というマッカーサー司令部の指令でした。 1946(昭和21)年のことです。まだ海には機雷があり、接触して船が沈み、死んだ友人もいます。でもまた船に乗れる。船乗りとしては、うれしかった。横浜へ向かった。 日本には当時、大きな船はなかった。米国貸与の「ダブリュ・エヌ・フェリス号」という船に乗った。戦時中、資材運搬用に造られた7500トンの船です。船倉を改造してかいこ棚をつくり、一度に3千人も詰め込んだ。 我々50人の船員は船の操舵にかかりきり。引き揚げ者が班をつくり、炊事や掃除当番などを決めていた。トイレは甲板です。後で海水で洗い流していた。 2年間、あちこちに行った。朝鮮、台湾、香港、広東、海南島、マニラ、シンガポール……。甲板で引き揚げ者から日本の様子を聞かれたり、帰国後に家に招かれたりしたこともあります。 場所によって様子がまるで違った。命からがら逃げてきた旧満州(中国東北部)や朝鮮からの人はやせ衰え、着の身着のまま。女も丸刈りだった。一方で南方は余裕があるというか、かばんに砂糖や米、毛布を入れた人もいた。 体が弱っていて船内でコレラやチフスが流行した。1日に20~30人も亡くなった。棺おけが足りず、日の丸で包み、鉄の重しを付けて海の中へドボン。汽笛を3回鳴らし、周りを3周して去った。 港は、家族がのぼり旗を立て、大勢で出迎えた。感激の対面だが、我々は次の任務がある。水と食料を積み、すぐ出港した。 船の救命ボートには、あらかじめ水や缶詰が積んであった。さすがは米国です。 48年、船を返すため米国オレゴン州に行った。港に100本のマストが並び、壮観だった。帰りの船が来るまで半年、船の修繕を手伝った。もうスクラップかなと思っていたのに、米国人が「次の戦争に備える」と言うんだ。びっくりした。米国は食べ物もうまいし、夜の明かりもまぶしかった。 日本は戦争中、船も灯火をすべて消して進んだ。沈没してもすぐ引き揚げられるよう、わざと浅瀬を行く。怖かった。