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1 昭和文壇をリードした河上徹太郎 昭和の代表的な文芸批評家、河上徹太郎。 小林秀雄と並び称される彼は、小林と同い年で、明治35年(1902年)に生まれました。ただし、河上は早生まれなので、学年は一つ上でした。 河上と小林は、東京府立一中で知り合い、その後、一高、東京帝大と同じエリートコースをたどり、二人とも就職せずに、批評家になりました。 二人は、大正から昭和初期に流行ったプロレタリア文学に対抗し、芸術派の「文学界」に依拠して、昭和の文学界をリードしていきます。 レトリックに長けた小林に対し、河上は、骨っぽく重厚な文体で芸術を論じました。 イギリス流の保守主義者で、芸術にも政治にも、ぶれない視点を持っていました。 また、酒を飲んでも乱れない、古武士的で、きわめて安定した人格の持ち主でした。 作家たちの面倒をよく見て、文壇の事務局長的な役割を果たしました。 いっぽう、エピキュリアン(享楽主義者)を自任し、美食や、ゴルフ、狩猟といった遊びにも積極的でした。 「私の詩と真実」で読売文学賞、「日本のアウトサイダー」で新潮社文学賞、「吉田松陰」で野間文芸賞などを受賞し、日本芸術院会員を務めました。 2 河上と柿生 河上は、戦前から東京の五反田に住んでいたのですが、戦時中、鶴川村(現・町田市)の白洲次郎・正子夫妻の邸宅(現・武相荘)に疎開します。 五反田の家が空襲で焼けたので、戦後の1947年から、鶴川村の近くの旧柿生村(現・川崎市麻生区片平)に、広大な土地を買って住むことになりました。 河上の実家は、山口県旧岩国藩の名家でした。中村光夫によれば、河上徹太郎は「食べるに困らない財産を親から譲られただけではなく、それをもし欲するなら使い捨ててもよい立場」だったそうです(著作集5「月報」)。河上は一人っ子で、結婚はしていましたが、子供はいませんでした。 河上が住んだのは、現在の川崎市麻生区片平ですが、「都筑郡柿生村」という戦前までの旧称を、河上は好みました。 河上の家は、現在の小田急多摩線「五月台」駅と「栗平」駅のあいだで、白鳥神社の近くにありました。でも、当時はまだ多摩線はありません。新百合ヶ丘駅(1974年開業)も、百合ヶ丘駅(1960年開業)もありません。西生田駅(現・読売ランド前駅)の次は柿生駅でした。 河上の家には、柿生駅から歩くか、車で行くしかありませんでした。 河上は、こう書いています。 「新宿から小田急で四十分、駅から歩いて三十分、その街道は水田と丘陵に挟まれて、その間、点々と農家がそれに接しているばかり、といえば大抵私の住居の環境は分かると思うが、だから初めて来た客など驚いてしまって、 ーーどうも閑静な御住居で…… と皮肉なお世辞をいったりする。」(「村のもの音」『自然のなかの私』p48) 東京から来る作家や編集者たちは、その田舎ぶりに驚いたのでしょう。 3 柿生での狩猟 しかし、河上は、その自然のなかで、銃を携えて狩猟をするのが楽しみになりました。 河上はこう書いています。 「なぜ柿生なんかに住んでいるのか、とよく聞かれるが、始めは深い子細はない。戦争で焼け出され、友人の白洲次郎の好意に甘えて鶴川村に居候しているうちに、近所を探してここに住みついたまでだ。然し、住めば都なんて痩せ我慢をするまでもなく、仲々いい所であると感じるようになった。」 「私がここを離れて東京へ引越す気がしない最大の理由は、昨年から銃猟を始めたからである。獲物の主なものは小綬鶏と鳩である。以前は小綬鶏が沢山いて有名な猟場だったそうだが、今はわざわざ電車に乗って撃ちに来る程のことはないであろう。然し私にとっては、縁側で銃に弾をこめて一歩踏み出すともう猟場である。」 片平では、主に小綬鶏、そして山鳩やカルガモ、また兎も狩猟の対象だったようです。ただし、河上は兎などは撃たず、もっぱら狩猟用の鳥として放たれていた小綬鶏を狙いました。 河上はこう書いています。 「小綬鶏は、撃った方はご承知だろうが、スタート・ダッシュが早くて、低く飛ぶので、茂みに隠れることが多く、咄嗟に撃たねばならない。しかもこの辺は人家が多く、従って山で働いている人も多いから、危険のないように常に見きわめていなければならない。この点一と苦労である。」(「都築ヶ丘の風物(二)」1954) 河上は、現在、栗平駅と黒川駅のあいだにある「とんびが池公園」で、カルガモに銃を向けた時のことを、こう書いています。 「拙宅から一キロばかり北の谷間に人気のない沼があり、一と猟期に一度くらいカル鴨が降りている所がある。」 「十二月中旬のある日曜日、私は銃を持ってボンヤリまたトンビ池のほとりにたたずんだのだ。(中略) ふと気がつくと、上空遥かにカル鴨が一羽飛んでいる。ボンヤリ見ていると、カルは逆転し、池に目がけて急降下して来た。 私はとっさに堤の篠笹の中に身を隠した。カルは翼をへの字にたわめ、飛行機が着水する時のように、それで風を殺しながら、水煙をあげて着水した。翼の紫色の濡れ羽は小春日を浴びて輝いている。 隈どった眼には独特の気品がある。私の所から距離は十二三間、絶好の射程である。 しかしこんな鳥に銃口が向けられようか? 私はしばししみじみ「鑑賞」していた。すると犬が気がついて岸でガサガサやり出したので、カルも気づき、またすぐ水飛沫をあげて飛び去った。」 4 文壇の社交場に 柿生の河上の家には、多くの作家や編集者、新聞記者などが訪れて、昭和文壇の社交場のようになりました。 当時、河上の家を訪ねたとされる作家や関係者には、鶴川に住んでいた白洲正子、生田に住んでいた庄野潤三をはじめ、井伏鱒二、吉田健一、石川淳、久保田万太郎、三好達治、巌谷大四、中里恒子、太宰治、阿部昭、石川桂郎などがいます。 久保田万太郎は、引っ越したばかりの河上邸を訪ね、俳句を残しています。 「某日、小田急柿生といふ駅にて下車 河上徹太郎を訪ねんとなり 七時まだ日の落ちきらず柿若葉」(久保田万太郎「句集流寓抄」) 訪ねた作家たちは、河上の家に一泊して、文学談義や文壇の噂話に花を咲かせたようです。 河上と片平で、狩猟をともにする文人たちもいました。 河上は書いています。 「私も時に天狗振って、今まで幾人か友人を連れて歩いた。私の猟場は丘陵地帯で足場がよく、宅へ帰って一杯やるサービスもついている。中でも傑作だったのは井伏鱒二で、下駄ばきでもじりの和服姿で現れたのには驚いた。それに彼はちょっとした坂道にも息が切れるのである。」 「吉田健一をお伴にした時は、溶け残った斑雪がある日だったが、彼は二日酔でやたらに喉をかわかし、しきりに雪をたべたがった。家に帰って酒がはいると、こんな辛かったことは海軍にいた時以来だ、と白状した。つまり余り面白くなかったらしいのである。」 「石川淳も来たことがある。彼は普通の靴をはいてきたから、尾根伝いに道を歩かせ、私は時々谷へ降りる。ある個所で小綬鶏を一羽落として腰へぶら下げて上って来ると、彼は俺は何もお前さんが小綬鶏を腰へぶら下げた所を見に来たんじゃないないんだぞ、撃ち落とす所を見に来たんだ、と怒鳴った。しかしそれは無理というものである。」(「私の猟」『旅酒猟』1975) 5 小田急多摩線開通で河上の「猟場」消滅 しかし、1970年代が近くなると、このあたりにも開発の波が押し寄せました。 小田急線多摩線の開通と、周辺の宅地開発工事のため、河上の愛した猟場は危機に瀕しました。 1970年に入って、河上は、こう書いています。 「先年からうちの周囲の地所を買いあさっていた小田急は、ついに宅地造成の認可をとった。他人の土地がどうなろうと已むを得ないが、そこに大幅の道路が出来て私の所有地を貫通するという。しかもそれをただで没収されるのであって、法的強制力があるのだそうだ。まるでかつての戦時下の統制主義の復活である。」(「フィレモンの嘆き」1970) 「庭から見下ろすと、チラホラ藁屋根が木立の中に見えるだけだった眺めも、近年点々と勤め人向きの住宅が建つようになった。のみならず、各所にブルドーザーの大部隊が現われ、緑の山を削り谷を埋め、赤土の大団地が現出する。おまけに裏山には私鉄の支線が通ることになった。 まさしく私にとっては「田園正に荒れんとす」である。」(「柿生暮らし二十年」1970) 「拙宅の近所を広く買いあさっていた商事会社が、いよいよ宅地造成を始めることになった。それも仕方ないが、ついては私の地所の中に大幅の道路をぶっ通すという。冗談じゃない。そこは私の書斎の上で、そこをバスやトラックにガタガタ通られては私の商売上がったりだ。」(「三つの拒否」1970) 「江ノ島鎌倉などには名所旧跡という命乞いの口実があるけど、かわいそうに多摩丘陵には名山も古跡もない。荒らされ放題である。首都圏に近いのも災難のタネだ。ブルが美しい山肌を無計画に壊してゆく。」(「開発に思う」1972) 1974年に新百合ヶ丘駅が営業開始し、小田急多摩線が開通しました。 河上の家の周辺も開発され、狩猟は不可能になったでしょう。 その後のことを書いたエッセーは見当たりません。 小田急多摩線の開通から6年後の1980年、河上徹太郎は肺がんのため、78歳で亡くなりました。 葬儀委員長は、終生の親友だった小林秀雄が務めました。