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日本では亡くなった後 火葬されるのが一般的で 遺体が掘り起こされて何かされた話はあまり聞きません しかし欧米では土葬が一般的で 遺体が掘り起こされて どうかされたなんて事は 過去に結構起きています 前回は愛が故、遺体を掘り返し戴冠式を行った王の話でしたが今回は 憎しみにより遺体を掘り返され 死後絞首刑にかけられた後 斬首されそのまま晒し者にされた護国卿 オリバークロムウェルについてです 18世紀フランスで王政と市民との戦いフランス革命が起こったように 1640年代イングランドでは王政派対議会派の内戦、清教徒革命が起こっていました 清教徒とはざっくり言うと過激なプロテスタント教徒の事です この頃イングランドはチャールズ1世が王様で彼はカトリック教に近い考えの持ち主でした 英国議会にはプロテスタント教徒、清教徒が多数いたので王政派と議会派は度々衝突し 次第に内戦へと発展していきました 議会派と王政派が血で血を洗う争いをしている中 議会派の軍の指揮官オリバークロムウェルが頭角を現してきました 彼は熱心な清教徒で王政軍との戦いに数多く勝利してきたので 沢山の人々からヒーロー的な扱いを受けるようになりました そして1649年ついに議会派指揮官 オリバークロムウェルは 王様、チャールズ1世を捉え チャールズ1世を独裁者として裁判にかけました 裁判の結果は有罪 オリバークロムウェルを含む法廷メンバーの過半数が死刑判決を下しました これによりチャールズ1世は 罵声をあげる民衆の目の前で斬首されました チャールズ1世が処刑されたのは1月の朝 寒い時期でした チャールズ1世はシャツを2枚着て 処刑台へ向かいました 寒さで震えてしまって集まった民衆に 王のくせに怖さで震えていると思われたくなかったのです チャールズ1世の息子チャールズ2世と残りの家族はフランスへ亡命しました この時イングランドは700年ぶりに絶対王政ではなくなりました 王様はいなくなりましたが 国の新しいリーダーとして議会派軍の指揮官 オリバークロムウェルが護国卿となりました 護国卿とはイングランド王国において王権に匹敵する最高統治権を与えられた首相のような立場を示します オリバークロムウェルは敬虔な清教徒だったので国民に品行方正になる事を強く望み 劇場や売春宿を閉鎖し その代わりに教会へ行くように指導しました それだけではなく彼は1647年にクリスマスを禁止する法令をだしています オリバークロムウェルをはじめとする清教徒は クリスマスが宗教的な意味合いよりも、宴会や飲酒、遊びといった世俗的な風習に浸るためのものと考えていたのです オリバークロムウェルは自らの事を「謙虚で、慎ましい男」と言っていましたが実際は横柄な態度をとる事も多くありました 王族が住んでいたホワイトホール宮殿に住み 自分の顔の記念硬貨を作らせたり 以前の王様を彷彿させるような行動も多く見られました そんな彼の時代は長くは続きませんでした 彼は5年間国のトップに立っていましたが 1658年9月59歳で亡くなりました マラリアが原因だったと言われています 亡くなった後デスマスクが作られ 彼の遺体には簡単な防腐処理がされました オリバークロムウェルは国のトップだったので 大規模なお葬式が執り行われることになっていました 準備は何週間にも及んだので 彼の遺体は腐り、異臭を放つようになっていました 臭いがあまりにも強烈だったため 公の場に出すのは賢明ではないと言う事になり 彼の遺体は内密にウェストミンスター寺院に埋葬されました 遺体が内密に埋められている中 大衆向けにはオリバークロムウェルの像が作られ広場に飾られていました そしてお葬式当日 空の棺には王冠が飾られ ウェストミンスター寺院までパレードで行進されました オリバークロムウェルのお葬式はとても豪華なものでイングランド王ジェームス1世のお葬式を基にして行われました オリバークロムウェルは歴代の王がそうしたように自分の息子リチャード・クロムウェルを護国卿の後継者に指名していました しかしリチャードクロムウェルはオリバークロムウェルのように何かの実績があったわけではありません すぐに多くの国民が彼の政治に対して疑問の声を上げました リチャードクロムウェルに対する不満は議会にも及び 議会は欲にまみれ馬鹿騒ぎをしていた 古き良き時代、王政を復活させる事にしました 議会はチャールズ1世の息子、チャールズ2世に亡命先から戻って王権を引き継ぐようにお願いしました この状況をまずいと思ったリチャードクロムウェルは妻子を残しフランスへ亡命しました チャールズ2世が王位につくと彼は早速 大衆の前で首を刎ねられた父親の復讐をします まず彼は自分の父親の裁判と処刑に関与した者たちを処刑させました そして更に彼は父親が処刑される1番の原因となったとも言えるオリバークロムウェルに最もグロテスクな罰を用意していました オリバークロムウェルが亡くなってすでに 1年以上経過していましたが そんな事でチャールズ2世は復讐を諦めませんでした 彼は自分の父親が処刑された日 清教徒革命で王政に逆らった名のある清教徒の遺体とオリバークロムウェルの遺体を墓から掘り起こさせました そしてチャールズ2世は その遺体を絞首刑にし 数日間吊るしたまま公開しました オリバークロムウェルの遺体は その後更に斬首され 胴体は絞首台の穴に放り投げられ 首は金属のスパイクに突き立てられました オリバークロムウェルの首はウェストミンスターホールの上に掲げられ 24年間そこで晒されました 1685年、チャールズ2世が亡くなった後 オリバークロムウェルの首はウェストミンスターホールから撤去されました しかしオリバークロムウェルの首は それからフランス人に買われ 博物館に展示された後 色んな投機家に売られたり買われたりして 300年間埋葬される事はありませんでした 1960年ついにオリバークロムウェルの首は 彼の母校であるケンブリッジ大学シドニーサックスカレッジの敷地内に秘密裏に埋葬されました そして元々オリバークロムウェルが埋葬されていたウェストミンスター寺院のオリバークロムウェルのお墓は チャールズ2世の庶子の遺体を埋めるのに使われました チャールズ2世は 沢山の偉大な王が埋められている由緒あるウェストミンスター寺院に 例え空っぽでも憎きオリバークロムウェルのお墓があるのが許せなくて 自分の庶子の遺体を入れたんでしょうか ここまで徹底してオリバークロムウェルの尊厳を傷つけるチャールズ2世にはちょっと狂気を感じます #歴史 #清教徒革命