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《説教要旨》 新しい年を迎えました。今朝からまた、ヨハネによる福音書に戻り、ここから御言葉に聞いていきましょう。 十字架を前にされての、弟子たちに対する主イエス・キリストのお話が続いています。今日のところでは、主イエス・キリストがまことのぶどうの木であるという、多くの人たちから非常に愛されている御言葉が、告げられています。5節において、いわば全体が簡潔にまとめられているというように、ひとまずここは考えてよいと思います。 「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 大切なことは、私たちが主イエス・キリストにつながっていることです。そうずれば、私たちは豊かに実を結ぶ。実を結ぶであろう、だったらよかったのに、というようなあやふやなことではありません。また、実を結びなさい、と命令されているのでもない。――神さまが実を結ばせてくださいます。 この関連で、2節がちょっとわかりにくくなっています。2節では、「私につながっていながら実を結ばない枝は」とあるんですね。つまり、5節をはじめ他のところでは、主イエス・キリストにつながっているなら、豊かに実を結ぶ、と断言されています。ところが、2節では、主につながりながらも、なお実を結ばないこともある、という言い方になっています。おかしいです。 しかし、これは翻訳の問題です。あまり翻訳のことであれこれ言うのは、重箱の隅をつついているようで、控えたいとは思うのですが、ここは大切な個所です。もともと「つながる」と訳されている言葉ですが、これは5節などにおいては「留まる」とか、「そこに住む」といった意味の言葉です。 ただし2節だけは違う言葉です。ここで「私につながっていながら」というのは、「私のところにありながら(いながら)」といったような言い方になっています。いわば、つながり具合が非常に軽く、一時的な印象を与える言葉です。これに対して、5節などでは、堅く結ばれ、いつまでも共につながっているという意味合いが色濃く出ています。主イエス・キリストがここで、私につながっていなさい、私に留まりなさい、と言われているのは、もちろん、このような意味においてです。 聖書に積もった埃をぷっと吹いて、時折聖書を読んでいるとか、(今はなかなか行きたくても礼拝に行けなくなってしまうようなことにもなってしまいましたが)いつでも行けるのに、忘れたころ、時々教会に行っているとかいうのでは、主イエス・キリストの内に留まって、堅く結ばれているとは、とても言えませんね。まるで蜘蛛の糸のような、今にも切れそうな細い糸で主イエス・キリストと結ばれているような状態で満足していてはいけない。しっかりと、いつまでも、主イエス・キリストの内に留まって、結ばれていなさい。それが信仰に生きることだ。主はそのように言われます。 そのように主イエス・キリストに留まること。それは、御言葉に留まることであり、また、教会に留まることでもあるでしょう。そうすれば、必ず、豊かに実を結ぶ。主イエス・キリストの、まことの命に生きることができるのです。 では、豊かに実を結ぶとは、どのようなことでしょうか。それは別の御言葉では、詩編第1編でも言われていることです。 最初に「いかに幸いなことか」とあって、そのあと2節、3節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」そのように、実を結びます。――それは、私たちが自分の人生を確かなものとして生き抜くことができる、ということです。 しかし、これは結論的な言い方になりますので、その前にもう少し別のことを、見ておきましょう。実を結ぶことによって、何が起こるか。ここで、3つのことが言われています。 まず、7節で「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とあります。つまり、祈りが聞かれます。 箴言の15章8節に、「主は逆らう者のいけにえをいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる」とあり、同じようですが、その29節には「主は逆らう者に遠くいますが、従う者の祈りを聞いてくださる」とあります。まさにそのことが起こる、ということです。 次に「私の弟子となるなら」と言われています。豊かに実を結ぶなら、それは主の弟子となることだ、というのです。「弟子」といっても、この当時はキリスト者、クリスチャンを指す普通の言葉でした。豊かに実を結んでこそ、本当の信仰者といえるのだ、ということですね。洗礼を受けたり、転入などをされたりするとき、教会では事前に小会において試問会を行ないます。信仰と生活について試問をする、ということですね。そのとき、長老方は試問と共に、勧めをされることが多いのですが、そこで豊島長老はしばしば、今朝の個所を引かれます。そして、励まされています。そのようにされて、どうか本物の信仰者として、その歩みを全うしてください、という祈りが、そこにあるのだと思って、私は聞いています。 そして、第三に、同じ8節の終わりに、「それによって、私の父は栄光をお受けになる」とあります。栄光を受けられる。 私たちが主イエス・キリストに堅く留まることによって、豊かに実を結ぶこととなる。するとそれは、父なる神さまがご栄光を受けられることへと、つながっているというわけです。神さまが栄光を受けられる、というのは、私たちのほうから考えるなら、私たちが神さまの栄光をあらわす、ということですね。栄光とは、輝かしい栄え、誉れです。国語辞典にも載っている言葉の意味から言って、そういうことです。もっとも、“栄光をあらわす、といっても、それがどういうことだかよくわからない”というような声も時々聞こえます。 栄光をあらわすとは、輝かしくも栄えある神さまを、まさにそのとおりに、輝かしく栄えある御方とする、ということですね。――もちろん、それは何も人間の手を借りるまでもないことです、本来。神さまはその存在そのものにおいて栄光に満ちておられます。人に何かをしてもらう必要など何もない。 しかし、罪と悪にまみれて、捩じれてしまった人間は、神さまの栄光を知らない、見ることができない、たとえ見たとしても、わからない。だから、人間が、人間にわかるように、翻訳をする必要があるということでしょう。 私たちが、まことの神をそのままにまことの神とする。――そのような翻訳は、どのようにして行われるのか? それは、私たちが熱心に神さまを礼拝する。喜んで御言葉に聞き続け、従っていく。いつも希望に生かされて歩んでいく。主にある兄弟姉妹が、愛と憐れみをもって生きていく…、などということにおいて、実現されている、といえるでしょう。そして、そのような私たちを、もし他の人が見るならば、その人も、神さまのご栄光を見るようにもなるのではないでしょうか。 そして「神のご栄光をあらわす」と言えば、特に私たち改革派教会の者たちは、必ず思い起こすことがあると思います。ウェストミンスター小教理問答の問1です。 「人のおもな目的は何ですか?」、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」 私たちが生きる目的。それは、神さまのご栄光を現すこと。神のご栄光を現す生き方をしてこそ、間違いのない、生き甲斐のある人生とある。意味ある人生となる。こう告白しています。キリストに留まっているなら、豊かに実を結ぶことになる。それによって、先ほど述べましたが、私たちは自分の人生を確かな目的と結びついたものとすることができる。人生を確かなものとして生き抜くことができるのです。 このように、主に堅く結ばれ、豊かに実を結ぶことによって、誰の人生であっても、その人生が意味のある、豊かで確かなものとなります。――祈りが聞かれ、本物の信仰者となり、神さまのご栄光を現す。そのことを通して、大きな実りがもたらされるからです。 終わりの9節、10節においては、愛が語られています。 9節「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい」。なお、9、10節で「留まる」と訳されている言葉は、4節以下で「つながる」と訳されているのと同じ言葉です。 ここで、愛がクローズアップされています。まことの神さまをそのままに神とする、という、先ほど述べたことですが、――そのときには、敢えて触れませんでしたが、それは何よりも、愛において実現されているといえます。キリスト教会が生まれた最初の頃、白い目で見る人たちもいたわけですが、そのような人たちにしても、教会の兄弟姉妹が、愛において、愛をもって生きている、という事実を認めていました。そこに特徴があることは否定できなかった。専売特許とまでは言いませんが、愛と言えばキリスト教、キリスト教と言えば愛、というのは、ずっと通り相場ですよね。ただし、表面的な愛ではなく、主イエス・キリストとその愛に堅く留まって、その愛をもって生きる。――これが、豊かに実を結んでいる者の歩みである、というのです。 豊かに実を結ぶ。これは命令ではなく、主イエス・キリストのうちに留まるならば、必ずそうなる、という約束です。そして、そのための命令があって、それは、主イエス・キリストにつながっていなさい(主イエス・キリストのうちに留まりなさい)、ということ。また、主イエス・キリストの愛に留まりなさい、ということ。この二つです。そして実際、一つでしょう。主イエス・キリストに留まることは、その愛に留まることです。御霊に祈りつつ、主とその愛、そして恵みに留まりましょう。御霊の助けと導きを祈り求めつつ、どのようなことがあろうとも、どこまでも、主に留まりましょう。そのように生きてこそ、人生を正しい目的通りに、生きることができます。 私たちの人生が、儚く消え去ってしまうことのないように、豊かな実りを祈り求めましょう。それこそが、揺るぎない人生です。他に、確かな道はありません。また、それを探し求める必要もない。主とその愛に留まるなら、豊かに実を結ぶ。その確かな約束があります。 2021年1月3日 朝拝 恵みと憐れみに富みたもう父なる神さま、尊い御名を崇めます。 私はまことのぶどうの木。あなたがたはその枝である。だから、私のうちに留まりなさい。そうすれば、豊かに実を結ぶ、と主は約束してくださっています。恵みを感謝いたします。 どうか、主イエス・キリストとその愛に、私たち堅く留まり、ご栄光をあらわしていくことができますように。 御霊がさらに力強く、教会と私たち一人一人を清め、支え、導いてください。 新しい年の歩みが始まっています。 今年は、新会堂の完成と献堂という格別な喜びを覚えます。 どうかすべてのことが、あなたの御手の祝福のうちに、導かれますように。 御手に委ね、感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 大場康司