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2022年7月23日(土) 訪城 東条城(とうじょうじょう) 所 在:愛知県西尾市吉良町駮馬城山45 34.8352988, 137.0905006 駐車場:東条城跡駐車場 34.8352033, 137.0912463 ●鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。 以降、十四代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。 南北朝時代、四代貞家は奥州管領として東国に赴いた。その後裔が関東吉良氏である。 室町時代、応仁の乱(1467〜)では、十代義藤は山名宗全に味方して、細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わった。 十二代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代の親代りとなり松平一門の危機を救った。 家康は、桶狭間合戦以降織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4年(1561)東条城を攻め、十四代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。しかし、天下を掌握した家康は、十三代義安の子義定を旗本に取り立て吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。(現地案内板より) ●茶臼山から伸びる尾根状丘陵の先端部、幡豆郡吉良町字城山に東条城は所在する。現在は街道で断ち切られ独立丘陵に見えるが、かつては細道の北と一体の城域であった。城域の東から南側は湿地で、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割をしていた。 (愛知の山城ベスト50を歩くより) ●この城は、三河吉良氏の本城であっだ。吉良氏の始まりは、承久3年(1221)、足利義氏が、承久の乱の戦功によって三河国守護職に任ぜられたときである。義氏は当初は西条に城を構えて、のちにこの地に移り、子孫代々が居城した。 城址は比高20mほどの小高い山の頂部にあり、本郭・ニの曲輪・腰曲輪が畑地やみかん畑の中に残っている。ただ、曲輪の面積から考察して、居館を備えていたものではなかったろう。本郭跡には石碑が建っている。 (日本城郭大系9より) ●三河吉良氏の本城であるが、そのはじまりは承久3年(1221)、足利義氏が、承久の乱の戦功によって、三河国守護職に任ぜられたときまでさか上る。義氏は三河に赴くといまの西尾に城を構え、さらにその東方一里九町の所に城を築いて移り住んだ。これが東条城である。 東条城に移った義氏は、土地名を姓とし、その子孫が代々居城した。徳川時代の家康の家臣、吉良義安はその子孫で、義定の数代後に、忠臣蔵の敵役、吉良義央がいる。元禄15年12月14日、義央が大石良雄らに討たれて東条城は主を失い、廃城となった。 いま、城址は部落の氏神を祀るのみで、当時の面影は全くない。 (日本城郭全集7より)