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東日本大震災で辛い思いをした少年を支えたのは全国から送られてきた「手紙」でした。その「少年」が成長し、いま心に抱く「夢」とはどのようなものなのでしょうか。 ■「生きるのに必死だった」7キロの水を持って歩き続けた 宮城県気仙沼市。震災の記憶を伝える「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」に、来館者が必ず足を止める1枚の写真が展示されています。 ペットボトルを両手に持ち、唇はぎゅっと結んだままの少年をとらえた「水を運ぶ少年」というタイトルの写真。写された少年は松本魁翔(かいと)さん、当時10歳でした。 被災地・気仙沼で成長し、2021年成人式を迎えた魁翔さんと「あの写真」が撮られた場所を訪ねました。 松本魁翔さん 「たぶん、この辺だと思うんですけど。思い出しますね。がれきとかもいっぱいあったなって」 (どのくらいの時間をかけて歩いた?) 「片道20分くらい、往復で40分くらい。生きるのに必死だったので、大変とか言っていられなかったのかなって思う」 魁翔さんの自宅は流され、一家はしばらく、親戚の家に身を寄せていました。“少しでも、家族の役に立たなきゃ”という思いで、魁翔さんは7キロの水を手に、朝昼晩、1か月もの間歩き続けたのですが… 魁翔さん 「このとき釘を踏んでしまって。(釘を)踏んだと言うと、『行かなくて良い』と言われると思っていたので、(親に)言わないで運んでいました」 当時の魁翔さんについて、母・いつかさんは。 母・松本いつかさん 「私に負担をかけたくないと思ったのか、(釘のことは)言わなかったですね。本当は、まだまだベタベタくっつきたかったとか、子どもらしさがまだあって当然だったと思うので、それは本当にかわいそうだったなと思います」 ■全国から手紙「勇気もらった」 「水を運ぶ少年」の写真はメディアに取り上げられ、大きな反響を呼びました。そして全国から、魁翔さんに「励ましの手紙」が寄せられたのです。 魁翔さん 「石川県に住んでいる沢田さんという方からもらったんですけど」 沢田由紀子さんからの手紙 「仮設の生活は、いっぱい不便な事、嫌な事、あるでしょうが負けるな!」 気仙沼から450キロ、石川県・輪島市。手紙をくれた、沢田由紀子さん(72)です。 沢田由紀子さん 「いっぱい写真あったけど、彼のこれが一番訴えてきた」 沢田さん自身が営む店に「水を運ぶ少年」の写真を使った手作りのポスターを貼り、東北への支援を呼びかけました。 魁翔さん 「この写真で気仙沼の状況を知ってもらえる機会を作ってもらえたのではないかなと思います」 魁翔さんは「大好きな気仙沼をぼくたちの代でりっぱにしていきたいです。その時は沢田さんを招待するので元気でいてくださいね」と返事を書きました。 沢田さん 「魁翔くん、元気にしていますか?つらいことや悲しいことにあっている人がいたら、くちびるかみしめて頑張ったみたいにみんなに寄り添って欲しいな。ずっと能登のおばちゃんは応援しています。ガンバレ、魁翔くん」 ■手紙がきっかけで始球式にも 場内アナウンス 「本日の始球式は松本魁翔さんです」 2021年、魁翔さんは楽天の始球式で投球しました。これも、手紙をやり取りしていた女性のおかげでした。佐賀県で企業の役員を務める、枝吉眞喜子さん(73)。取引先の楽天が探していた始球式の投手に魁翔さんを推薦したのです。 枝吉眞喜子さん 「これからも魁翔くんの頑張りをずっと応援させてください。ぜひ佐賀に遊びに来てください」 ■難病で体が動かなくても、エールを 魁翔さんが大切にしている一枚の絵があります。あの「水を運ぶ少年」が、可愛らしく描かれています。 魁翔さん 「そのときのことを思い出させてくれる絵ですね」 絵を描いたのは、広島に住む大上克己(おおうえ かつみ)さん(69)。44歳の時、「パーキンソン病」をわずらいました。徐々に体が動かなくなる難病です。好きな絵が描けるのは、薬が効いているわずかな時間だけ。 大上克己さん 「動かなくなったら、ほんと1センチの線が描けない」 そんな中で「水を運ぶ少年」を描き上げました。 大上さん 「僕らが勇気を与えないといけない立場なんですけど、逆に僕たちが勇気をもらった。魁翔くんとおじさんが約束したこと覚えてるかい?『僕が鹿折(ししおり)地区を復興・復旧したら、広島のおじさんを呼ぶよ』と約束をしたよね。ベッド生活にならないようにおじさんも頑張るから、魁翔くんも負けないように頑張ってくれたら大変嬉しいです」 ■“水を運ぶ少年”が抱いた夢は 1枚の写真をきっかけに多くの人とつながった魁翔さん。やがて、自分の歩むべき道を見つけます。 魁翔さん 「震災で、体の不自由な人とか高齢者がたくさん逃げ遅れて亡くなってしまったというのを聞いて、理学療法士になろうと思いました」 今は専門学校で、お年寄りなどのリハビリを補助する「理学療法士」を目指し、頑張っています。 ■魁翔さんと母を支えた女性 11年越しの初対面 11年間、魁翔さんと家族のように接してきた人が、北海道浜頓別町にいます。鎌田ナツさん、82歳です。 鎌田ナツさん 「(新聞で見た『水を運ぶ少年』の写真が)目から離れないの、何日も。ああいう体験はない。ごはん腹いっぱい食べさせてやりたいと思ってね」 ナツさんは、自分の畑でできた野菜を段ボールいっぱいに詰め、避難所に送りました。すると、魁翔さんから、その野菜入りのカレーを食べる写真が届きました。 ナツさん 「腹いっぱい食べられたなと思って…。1回でも、1食でも、そういう思い出がね」 実は、ナツさん、魁翔さんの母・いつかさんの悩みを電話でよく打ち明けられていました。 ナツさん 「(いつかさんが)慕ってくれてね。お母さんも悲しいことあったら、『いいよ泣いても、うんと泣きな』って。わんわん泣くんですよ」 そんないつかさんも魁翔さんも、ナツさんと一度も会ったことはありません。そこで、リモートでつなぐことに。11年越しの、初対面です。 魁翔さん 「こんにちは」 ナツさん 「こんにちは。大人になったねぇ。みんなつらいもんね、あのときはね。それを言えなかったもんね、誰にもね」 魁翔さん 「それ以上にみんなから応援の言葉をいただいていたので」 ナツさん 「それに応えて魁翔くん頑張ったから、今があるんだもん」 そこへ、母・いつかさんが… ナツさん 「おやおやおや、お母さん。初めて会うね」 いつかさん 「初めまして。今ナツさんの声を聞いてて、当時のことが…」 ナツさん 「泣くな、もう泣かないで。お母さん、泣いてばっかり。魁翔くん、ティッシュ持ってきてあげな」(笑) 11年間のさまざまな想いが溢れ出します。いつかさんは、シングルマザーです。避難生活をしながら3人の子どもを育ててきました。 ナツさん 「たくましくなったね、魁翔くんね。たくましくなった。泣き虫お母さんだから。本当は強いんだよね。強くなかったら子育てできないもんね。大変だよ、本当にね。よく頑張ったわ。お母さん、大事にしないとダメよ。あんまり甘やかしてもダメだけど。たまにね、ちょっとだけ優しくしてあげな」 魁翔さん 「わかりました」 「やっぱり、あの手紙が無ければ、絶対今の自分はいないと思うので、自分が恩返しできれば良いかなと思います。『気仙沼の理学療法士』と言ったら松本魁翔みたいな感じで言われるように、その夢に向かって頑張っていきたいなって思います」 (11日19:38)