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天籟寺(てんらいじ)は北九州市戸畑区の中南部に位置します。かって天籟寺通りの東西を天籟寺といいました。古代にあった寺院で、廃寺になった天籟寺による地名といわれています。ここでは現在の地名の菅原、天籟寺、夜宮を訪ねます。 天籟寺には菅原道真の話が伝えられています。菅原氏は代々学問に優れた家柄でした。道真は讃岐守に任ぜられました。帰任後、宇多天皇は道真を抜擢し、宇多天皇による政治改革を道真は推進しました。 宇多天皇は醍醐天皇に譲位します。道真は右大臣まで昇進しましたが、藤原氏をはじめとする有力貴族の反発を買いました。901(延喜元)年、左大臣藤原時平の讒言により、道真は大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷され、大宰府に赴きました。 天籟寺に数人の人が一晩の宿を頼みました。断りましたが、一番鶏が鳴くまでということで承知しました。しかし、早く追い払いたいため、寺の小僧さんに鶏の鳴くまねをさせました。旅人達は不平を言わず、お礼を言って旅立ちました。この旅人達が菅原道真の一行だったことが後で分かりました。村人達は菅原道真をこの地に祀ったといわれています。天籟寺に伝わる菅原道真の話です。 小倉方面からは国道3号戸畑バイパスの急な直線の坂道を上り、西鞘ヶ谷交差点を左折して、次の東鞘ヶ谷1号前交差点で左折して西鞘ヶ谷町正津町1号線に入ります。 八幡方面からは国道3号戸畑バイパスの急な直線の坂道を下り、西鞘ヶ谷交差点の先に左に入る道がありますので左折し、次の交差点で左折して、同じく西鞘ヶ谷町正津町1号線に入ります。 西鞘ヶ谷町正津町1号線を北に進みます。くろがね線のガード下を通ります。くろがね線は、日本製鉄の八幡と戸畑の工場を結ぶ専用鉄道です。その先を進むと 天籟寺通りになります。 天籟寺通りの夜宮2丁目交差点の次が夜宮交差点です。夜宮交差点からは東になんじゃもんじゃ通りが伸びています。なんじゃもんじゃの木は、街路樹として植栽されているモクセイ科のヒトツバタゴです。4月下旬から5月にかけて多くの白い花が咲きます。 夜宮交差点を右折し、なんじゃもんじゃ通りの先の右手に天籟寺小学校が見えます。その手前を右折して、天籟寺小学校の横の通りに入ります。小学校の横に細長い屋根が伸びています。その下に夜宮の大珪化木があります。 夜宮の大珪化木は、1940(昭和15)年夜宮地区の区画整理中に、6mの地中から発見されました。露出部分が12.9mあり、全体で40mの日本で最大級の珪化木です。1957(昭和32)年国の天然記念物に指定されました。3,500万年前の地層にあり、その当時、この地は亜熱帯の暖かい気候で、巨木が生い茂る森林地帯でした。葉樹の幹に石英の成分の珪酸がしみ込んで、化石になりました。 天籟寺通りの夜宮交差点に戻り北に行きます。次の天籟寺2丁目交差点を左折して、天籟寺川に架かる橋を渡り、山手に上って行きます。坂道を右にカーブすると、先方の右手に菅原神社の鳥居が見えます。その手前、坂道の左手に史蹟菅公御手洗の池の石碑が立っていて、奥に進む細道になっています。奥に菅公御手洗の池があります。菅原道真が天籟寺に泊まられた折、手を洗われた池と伝えられています。北九州には、菅原道真の大宰府へ下向の際の伝承が多く残されています。 村人達によって菅原道真を祀ったのが菅原神社といわれています。903(延喜3)年、菅原道真は大宰府で亡くなりました。その20年後、藤原時平の関係者に不幸が続きます。道真の怨霊のせいだといわれます。時の勢力は時平の系統以外の藤原氏に移り、その藤原氏主流によって道真の霊は祀られます。それが北野天満宮です。道真の埋葬地には安楽寺が建てられます。安楽寺は大宰府政庁の人達の崇敬を集め、神仏習合で大宰府天満宮となっていきます。 坂道に戻り、右手の菅原神社の鳥居から本殿に向かいます。菅原道真といえば牛です。菅原神社本殿の横に臥牛の像があります。その横に、菅原道真が愛用していた牛の蹄の跡といわれるものが遺されています。 菅原神社境内に天神之水が出ます。地下の深い所から汲み上げられています。菅公の霊験あらたかなのか、たくさんの方がおいしい水を持ち帰ります。 道路を挟んだ菅原神社の反対南側に、菅原公園があります。公園として整備され、こちらから菅公御手洗の池に行くこともできます。菅原公園の北西角です。この一帯は天賀(てんが)城跡です。城は公園の南側の天礼寺山にありましたが、団地造成で消滅しました。 菅原公園の北西角に、天賀城跡の石碑が立っています。戦国時代末期、天賀城は麻生氏の家臣天賀二郎三郎永行(ながゆき)の居城でしたが、大友宗麟の兵に攻められ、城主以下家臣は全滅して落城しました。石碑の前の五輪塔が天賀永行の墓といわれています。 天籟寺通りに戻り、天籟寺2丁目交差点から北の天籟寺交差点に向かいます。天籟寺通りも西鞘ヶ谷町正津町1号線も天籟寺交差点を右折します。反対に左折した先は沖台通りになります。天籟寺交差点を右折すると、天籟寺バス停があります。バス停の前に六地蔵が祀られています。 天賀城は、天籟寺住職の大友方への城の機密の密告で落城したといわれています。落城の際、城主の姫達は乳母や侍女とともに到津まで落ち延びましたが、力尽き自害しました。天籟寺にはこれ以来災難や不幸事が続き、住職も不幸な最期を遂げました。 このため、土地の人々は姫達の霊を慰めるために、六地蔵を祀りました。姫様を祀っているため、白粉(おしろい)を塗ると願が叶えられたということで、願をかけて白粉を塗るようになり、白粉(おしろい)地蔵と呼ばれます。