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「Calling」 Callingには、「呼び出し、電話をかける、招集などの意味以外に、神の召し、使命」などの意味があります。 皆さんは、何に召されていると思いますか? 聖書の中には、五役者といって、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という役割について書かれている箇所がありますが、神様の召しは、特定の役割、職業にたいするものだけではありません。 自分は何にも召されていない、わからないという方もいらっしゃるかもしれません。 でも、安心してください。 全ての人に何らかの神様の召しがあります。 まず、最初に注意しなければいけないことがあります。 このCalling、神様の召しには段階や、シーズンがあります。 あなたが、どの段階にいて、何にあなたを召しておられるかを知れるキッカケになることを期待しています。 1、神様は呼びかけるお方 創世記 3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰られた。 「あなたはどこにいるのか。」 ここに出てくる人は、アダムです。 アダム神様から食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまい、神様を恐れて隠れていたため、神様は、アダムを探し、呼びかけました。 神様は、全知全能の神です。 アダムが失敗したことも知っていました。 失敗者であるにも関わらず、神様はアダムを探され呼ばれました。 神様は、何のためにアダムを呼ばれたのでしょうか? 神様が人を造られた理由は、愛するためです。 アダムと愛の交わりを持つために、神様はアダムを呼ばれました。 同じように、神様はあなたが失敗しても、罪を犯しても、変わらずあなたのことを愛し、呼ばれるお方です。 神様は、あなたとの交わりを楽しみにしておられるお方なのです。 私たちは、アダムのように神様から隠れる必要はありません。 私たちは、救われる前から、神様からずーっと呼ばれていました。 僕が小学生の頃、実家には祖父母と母と妹が一緒に住んでいて、祖母と母は創価学会員で、毎週木曜に座談会という集会が家で行われていました。 そんな教会とは全く接点のない世界で生きていましたが、ある時に近所に引っ越してきた年の近い子供に誘われて、家から歩いて10分くらいの場所にあるルーテル教会に行き、よくわからず本を借りた記憶があります。 そのことを伝えると何故かわからないけど、行ってはいけない、本をすぐに返してきなさいと怒られた記憶があります。 神様は、僕が子供の頃からキッカケを与え、呼ばれていたのです。 神様は、どこからか私たちを召されて、呼び出されていたのです。 それに、応答するかどうはその人自身の判断にはなってきます。 僕は18歳の時にイエス様の事を知り、19歳でイエス様のCalling、呼び出しに応答しました。 そのため、イエス様の十字架により、贖われたため、大胆に主の御前にでる特権を与えられています。 同じようにあなたは、神様に呼び出されているのです。 それが、あなたの「Calling」のスタートなのです。 2、神様は目的をもって呼ばれるお方 創世記 22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わされた。 神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい、ここにおります。」と答えた。 アブラハムは、試練のために呼び出されました。 アブラハムは何のために呼ばれたかわからずに、「はい、ここにおります。」と答えた。 ただ、先ほどのアダムと違い、アブラハムは、堂々と神様の前に出て応答しました。 「ここにおります。」という言葉は、ヘブル語で「Hineni / ヒネニ」といい、神の呼びかけに対して、単に自分の居場所を伝えるだけでなく、「私はここにおり、準備はできています」という全面的な従順と献身を示す重要な返答として使われています。 アブラハムは、準備できてまっせと言わんばかりに返事をしましたが、神様はアブラハムにとてつもない試練を用意していました。 その試練とは、高齢になってやっとできた息子イサクをいけにえとして捧げなさいという超ハードなことでした。 しかし、アブラハムは、神様の言葉に従い、イサクを捧げる信仰が試される旅路に出て、イサクをいけにえとして捧げる寸前に、神様から代わりとなる牡羊が与えられました。 そこは、「アドナイ・イエル:主よの山には備えがある」と言われる場所となりました。 神様があなたを呼ばれる時に、次のステップへとあなたを導く時でもあります。 大きな試練、大きな山に登るように感じることがあるでしょう。 しかし、安心してください。 主が導く先には、主の備えがある場所なのです。 主が、あなたを呼ばれていると感じるならば、ぜひ「はい、ここにおります。」と応答しようではありませんか。 3、神様は、使命を与えるために呼ばれるお方 出エジプト 3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。 神は柴の中から彼を呼び、「モーセ。モーセ。」と仰られた。 彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。 このとき、モーセは80歳だったと言われいます。 モーセは、アブラハムと同じように「はい。ここにおります。」と答えました。 1サムエル 3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。 サムエルは、「お話しください。しもべ聞いております。」と申し上げた。 この時、サムエルは10〜13歳だと考えられています。 神様は、まだ子供であったサムエルにも声をかけられました。 この2人の事から、私たちが学べることの一つは、神様が誰かを用いる時に年齢は関係ないということです。 例え、子供であろうが80歳の老人であろうが、神様は呼び出され、使命を与え用いることができるお方なのです。 サムエルは、実は3回ほど呼ばれています。 最初は神様に呼ばれたことに気づかずに、自分が仕えていた祭司エリの元に行っていました。 しかし、祭司エリは呼んでいないと2回答えた時に、もしかしたら神様が呼んでいるのかもと思い、サムエルにもし次に呼ばれたらこう言いなさいとアドバイスをしました。 それが、「お話しください。しもべ聞いております。」 これは、私たちにも与えられている最高のアドバイスです。 そして、これまでよりも一歩進んだ応答です。 神様の使命を担うために私たちに必要なものは「しもべの心」です。 しもべというのは、単なる召使ではなく、主人の意思に従い、仕える者です。 召使と、主人の意思に従い仕える者の違いについて、聖書が教えている箇所があります。 マタイ 25:21 その主人は彼に言った。 『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。』 主人が、3人のしもべにそれぞれ、5タラント、2タラント、1タラントを預けました。 そして、5タラント預かったものはそれを元手に5タラント儲け、2タラント預かったものも同様にさらに2タラント儲けました。 しかし、1タラント預かったものは、与えられた物を失うこと、失敗を恐れて地面に隠してしまいました。 主人が帰ってきた時に、5タラント渡されたしもべと、2タラント渡されたしもべは、御言葉のとおりに褒められました。 しかし、1タラント預かっていたしもべは、銀行にでも預けとけば利息くらいは稼げたのにと言って、10タラント持っているしもべに1タラントを渡しました。 この主人は、それぞれに見合った能力に合わせて、それぞれの金額、タラントを与えました。 ちなみに1タラントは、現代の価値にすると6000万円〜1億円。 信頼がなければ、そんな大きなお金を任せることは難しいでしょう。 ただ、この主人は、ただお金を預けたのでは無く、それをどう用いるのかを見ていました。 この主人は、増やした金額を褒めたというよりも、それを用いた事を褒めたように見えます。 また、主人が定義する悪いしもべ、それは、なまけもののしもべである事が書かれています。 多分、もし失敗して金額が減っていたとしても、何かしらのチャレンジをしていれば、受け入れてくれたのではないかと思われます。 単なる召使と、主人の意思に従い仕えるものの違いがここに現れています。 同じように神様は私たちの能力に応じて、このタラントを私たちに委ねられています。 このタラントという言葉は、現代のタレント:才能、賜物の語源となっています。 私たちに与えられている才能、賜物は、磨く必要があります。 ダイヤの原石も、磨かなければ原石、石ころのままです。 神様の使命を果たすためには、私たちに与えられた賜物を磨く必要があるのです。 4、神様はあなたを遣わしたいお方 イザヤ 6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」 と言っておられる主の声を聞いたので、言った。 「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 神様は、だれを遣わすか探しています。 誰が、わたしのために言ってくれるのかを。 今日の御言葉で、「はい、ここにおります。」という言葉が何度か出てきましたが、英語では「Here I am」と書かれています。 しかし、この箇所「ここに、私がおります。」は、「Here am I」と書かれており、強調された表現になっています。 神様は、神様のために情熱をもって働きたいと願う人を待ち望んでいます。 イザヤは、熱心に立候補をしたのですが、実は、この御言葉の前にイザヤは全く違う態度をとっています。 イザヤ 6:5−7 そこで、私は言った。 「ああ、私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、 祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 彼は、私の口に触れて言った。 「みよ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 ある時、イザヤは主を見て、自分の汚れにより、周りの汚れた環境にいる自分だから、もうダメだと思いました。 そこで、セラフィムが燃えさかる炭をイザヤの口に触れさせ、その不義を取り去りました。 そのことがあってから、イザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と立候補したのです。 イザヤの態度を変えたこの燃えさかる炭とは何だったのでしょうか? イザヤ 9:6−7 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、 さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。 今より、とこしえまで、 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 これは、救い主であるイエス様についての預言です。 イエス様が生まれる数百年前からこのことが書かれていたことに本当に驚くばかりです。 そして、その救いの計画は万軍の主が熱心に願い、成し遂げようとしたことなのです。 それは、まるで祭壇の上にあった炭、それは全焼の生贄として捧げられたイエス様です。 燃えさかる全焼のいけにえの炭であるイエス様が私たちに触れる時に、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われたのです。 あなたの不義は取り去られ、罪も贖われたのです。 イザヤのように、主のために立ち上がる人がどれくらいいらっしゃるでしょうか? あなたの人生は、苦難の中で終わってはいけないのです。 このCalling、召しを、神様の呼ばれる声を聞いたのならば、ぜひ応答しましょう。 「はい、ここにおります。」と。 そうすることによって、今日からあなたの人生は、新しく作り変えられていきます。 何故なら、万軍の熱心がそれを成し遂げてくださるからです。