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ひやみかち節 作詞 平良新助 作曲 山内盛彬(せいひん) 一、名に立ちゅる沖縄宝島でむぬ 心うち合わち うたちみしょり なーにたちゅる 'うちなーたからじま でむぬ くくる'うち'あわち'うたちみしょーり ◯名に立つ沖縄 宝島だから 心をひとつに合わせてお立ちください 二、稲粟の稔り 弥勒世ぬ印 心うち合わち気張りみそり 'いに'あわぬなうり みるくゆーぬ しるし くくる'うち'あーち ちばいみしょーり ◯稲粟が実り 豊年の世の予兆 心ひとつに合わせがんばってください 三、がくやないしゅらさ花や咲き美らさ 我した此ぬ沖縄世界に知らさ がくやないしゅーらーさ はなや さちじゅらさ わしたくぬ'うちなーしけーにしらさ ◯ガク(音楽)は鳴りかわいらしい 花は咲き 美しい 私たちのこの沖縄世界に知らせよう 四、人の取ゆる年ぬ んぱんぱぬなゆみ うびらじに取たさ六十ばんじゃ っちゅぬとぅゆるとぅしぬ んぱんぱぬなゆみ 'うびらじにとぅたさ るくじゅーばんじゃ ◯人の取る年は イヤイヤと拒否できるか? 気づかない間に取ったよ 60(歳)真っ盛り 五、我や虎でむぬ羽着けてたぼり 波路パシフィック渡てなびら わんやとうらでむぬ はにちきてぃたぼり なみじパシフィックわたてぃなびら ◯私は虎だから 羽をつけてください 波路太平洋渡りましょう 六、七転び転でひやみかち起きり 我したこの沖縄世界に知らさ ななくるびくるでぃ ひやみかち'うきり わしたくぬ'うちなーしけーにしらさ ◯七転び転んで「エイ」と言って起きよ 私たちのこの沖縄世界に知らせよう ●「ヒヤミカチ節」、ないし、「ひやみかち節」(ひやみかちぶし)は、第二次世界大戦後、平良新助の琉歌に山内盛彬が曲をつけ、歌詞を追加して創作された、沖縄音楽の楽曲である。民謡とされることが多い[ ●概要 作詞者の平良新助(たいら しんすけ、1876年 - 1970年)は、今帰仁村出身で1901年に渡米して成功した経営者となり、第二次世界大戦中に強制収容を経験した後、沖縄に戻った人物であった。沖縄戦によって荒廃していた故郷を励まそうという意図から、この曲の歌詞1番となる琉歌を作った。 【wikiより引用】 「ヒヤミカチ」は、「エイヤっと(起き上がる)」といった意味である。 1948年、この琉歌に山内盛彬が曲をつけ、2番以降の歌詞を加えて[1]、カチャーシーにふさわしいテンポの速い曲として広く親しまれるようになった。 「ヒヤミカチ節」は、登川誠仁が得意としたほか、喜納昌吉、金城恵子、上間綾乃、大城バネサら多数が、アルバムなどで取り上げている。 2011年に、晩年の山内盛彬が入所していた沖縄市の沖縄長寿センター緑樹苑の施設内に「ひやみかち節」の歌碑が設けられた。 また、2012年からは、「国際ひやみかち節コンクール」が沖縄市で開催されており、様々な趣向による「ヒヤミカチ節」が披露されるイベントとなっている。 2019年10月に延伸開業した沖縄都市モノレール線てだこ浦西駅の、到着時の車内チャイムに使用されている。 ●喜友名朝仁による歌詞 1961年にコザ市(後の沖縄市)が市制5周年を迎えた際には、喜友名朝仁が、コザ市の風物を歌い込んだ「ヒヤミカチ節」を作詞して発表した。 ●高校野球 2010年の第92回全国高等学校野球選手権大会に沖縄県代表として興南高等学校が出場した際、新たな応援歌としてヒヤミカチ節をもとに歌詞を改変したものを作った。この年、興南は優勝を果たし、春夏連覇を達成した。 【コメント】「たるーの島唄まじめな研究」より引用 沖縄戦で荒廃した沖縄と人々の心を奮い立たせたいと、平良新助氏が作った歌詞に、山内盛彬氏が曲をつけたといわれる。 一番が平良氏の歌詞で、二番、三番は山内氏のものだという。 平良新助氏はアメリカに移民しホテル経営などで成功した今帰仁出身の実業家。 山内盛彬氏は湛水流やオモロの研究家。 ハイポジションの演奏がまるで「津軽三味線」のようで、ついつい早く弾きたい曲だが、もとはゆっくりした曲だったという。 民謡ブームの中でどんどん早くなっていったらしい。 古典の技法をほとんど習得された盛彬先生らしい。歌っても楽しい、聴いても楽しい。しかし意味もよく味わってみたい。 【なうりについて】 さて二番の「なうり」だが、沖縄語辞典、琉球語辞典、石垣方言辞典に「なおり」は無く、 なゆん nayuN 実がなる。があるだけ。 古語大辞典(角川書店)には「なほり」としてある。長いが引用する。 「なほり【直り・稔り】[古][琉]ナウイ ①直ること。立派になること。「なお」(直)は日本古語の「なおらい」(神への供え物を一同でいただくこと)に関係ある語であろう。」 「➁豊穣になること。稔ること。竹富町小浜島では豊年のことをナウリィ ユーという(八重山語彙)。」 つまり日本古語との関係がある古い言葉であり、世の中が好ましい状態に直ること、豊穣、平和、稔りという意味に捉えられる語句である。 「琉歌大成」には以下の3つの琉歌があった。 「なからたの米やはなれつぢ粟もつぢ粟のなをりみろく世果報」 小浜節から 「大嶽にのぼておし下り見れば稲粟のなをり今年世果報」 「大嶽にのぼておし下り見れば稲粟のなをり弥勒世果報」 【がく について】 また三番の「がく」であるが、「学」としたものや「楽」とした歌詞が多い。 「がく」について、私の手許にある資料をいくつか調べてみた。 「琉歌大観」(島袋盛敏)によれば約三千首の琉歌のうち「がく」という文字が使われているものはひとつだけで、それは 「首里親国やれば楽ひやさうも聞きゆり我島山国や鳴木ばかり (首里お国であればガクブラや笛やいろいろの鳴り物の音を聞くことができるけれども、われら山国の村では、鳴木の音を聞くばかりである」 (「琉歌大観」より抜粋) というものだった。 沖縄語辞典では上の「語句」に引用したとおり。 一方、「琉歌大成」(清水彰)では、同様に「がく」が使われた琉歌はこれ一首だけだが、訳には「行列の音楽」となっている。 おそらく「ガクブラ」による演奏を「行列の音楽」と一般にわかりやすく訳したものだろう。 つまり「がく」が「音楽」の略だというのは一般的には理解できるが、 琉歌の世界では「がく」とは、王様などの行列に随行する楽団の「がくぶら」のかなでる「行列の音楽」のことだと理解することは必要だろう。 その上で「がく」を広く「音楽」一般と理解しても構わないと思う。 短い言葉に深い、広い意味をも含ませる琉歌の作り方も学ぶことができると思う。