У нас вы можете посмотреть бесплатно 防人(さきもり)はメチャクチャ強かった!【意味がわかるとナニゲな日本史】~防人を哀れや悲しみのシンボルにするのは失礼千万!対侵略、対侵攻、国防、国家防衛にあたった東国軍事強国群の兵士たち или скачать в максимальном доступном качестве, видео которое было загружено на ютуб. Для загрузки выберите вариант из формы ниже:
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#歴史 #古代史 #日本書紀 #国防 #防人歌 ●「歴史観測」局長・尾崎克之の新刊 「ありがとう」の謎解き日本史! 『「ありがとう」という品性~なぜ「ありがたい」が感謝の言葉になるのか』 (啓文社書房) https://amzn.asia/d/9NiZWwt ------------------------------------- 7世紀の飛鳥時代、白村江の戦いの敗戦後、対馬、壱岐、筑紫国に配備された防人は、無理やり家族から引き離された、とか、移動の費用も武器の費用も出してもらえず軍事経験もないのに戦わされた、とか、反戦のシンボルだ、とか言われがちです。防人が召集された東国(関東・東北)は、日本史上、西日本よりもはるかに長い歴史を持ち、文明と技術に先んじた軍事強国群でした。防人は、その軍事力を必要とされ、大陸からの侵攻侵略に対する国家防衛の主戦力として東国から集められたのです。 (監修・制作/歴史観測) ※チャンネル登録のほど、よろしくお願いできれば幸いです。 twitter / rekishikansoku1 ★おすすめe-book 歴史ファンタジー小説『イルカ殺し-大化改新(改)~窯変、乙巳の変の巻~』、ワニブックスの電子書籍専門レーベルDigiFastBookから各電子書店で配信中。 ●Amazon(kindle) https://amazon.co.jp/dp/B09VXBKXRD ●ブックライブ https://booklive.jp/product/index/tit... (内容紹介) 西暦の663年に、白村江の戦いという戦争がありました。はくすきのえ、っていうのがもともとの読み方です。日本書紀は漢文で書かれている本ですけれども、その読み下し、読み下しとは漢文を日本語らしく読み替えるっていうことですけれども、白村江の読み下しははくすきのえになってます。 白村江は、朝鮮半島の西海岸にありました。西海岸を半分以上南におりていったあたりです。今の韓国の、錦江っていう川が海に流れ出る湾一帯が白村江と呼ばれていました。 白村江の戦いは、日本が最初に経験した対外戦争、つまり、初めて外国と戦った戦争だといわれています。戦った相手は、唐っていう中国大陸の帝国と、新羅っていう、朝鮮半島の東半分くらいを収めていた国の連合軍です。 まず、唐と新羅の連合軍が、新羅の隣にあった、百済っていう国に侵攻して滅ぼしました。日本はですね、百済がないといろいろと困るんです。そこで百済をもういちど国として立て直すために、百済へ軍隊を送り込みます。日本書紀を読むと、派遣した兵士の数は最低で27000人です。 日本は、白村江の戦いに負けました。日本書紀にはっきりとそう書いてあります。当時の日本のリーダーは誰だったかというと、中大兄皇子です。蘇我入鹿の暗殺で有名ですね。中大兄皇子は、後で天智天皇って呼ばれることになる天皇になりますが、そのときは皇太子のままでした。正式な天皇がいないまま、天皇に準じる人が国を運営することを称制っていいます。 中大兄皇子は、負けが決まると、すぐに対馬と壱岐と筑紫国に防人っていう兵士を送り込みます。今の対馬、壱岐です。朝鮮半島と九州の間にある島ですね。筑紫国っていうのは九州のことです。狼煙台も完備しました。煙や火を使って情報を伝えていく、当時の通信装置ですね。 これはつまり、今度は日本がやられるんじゃないか、やばい、ということです。 結果的に軍事的に攻撃されることはなかったんですけれども、それでもやっぱり唐は日本にやってきました。こっちは戦争に勝ったんだ、落とし前をつけろ、っていうことですね。日本書紀には、二度にわたって2000人ずつを送り込んできた、と書いてあります。 一度目は白村江の戦いから三年後、二度目は八年後です。二度っていうのはたぶん書き間違えで実際には2000人が一度だけだろうって言われているんですが、それにしても2000人というのはけっこうな数で、これは、日本を占領する仕事をするためにやってきた人たちだろう、とも言われています。実際、日本はそのあと200年くらい、平安時代の中ころまで唐に占領されていたんだ、と言う人もいます。 それで、まあ、ともかく唐は日本に2000人、送り込んでくるんですが、そのときに、とてもおもしろいことを言っています。2000人の一行の代表が、九州にある太宰府っていう役所に、こんなことを伝言してくるんです。 今、途中の島にいるんだけれども、このまま近づいたら防人が驚いて射掛けてくるだろう、なんとかしてほしい。そんなことを言ってくるんですね。 (恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむ) これ、どういうことでしょうか。まず、唐の人たちは防人が配備されているという情報を事前に持っていた、っていうことですよね。なら、防人がどういう奴らなのか、ということも調べていたでしょう。 怖いんですよ、防人が。2000人を収容した大船団を木端微塵にするくらいの力のある奴らだっていうことを、唐の人たちは知っていたんです。 防人は、めちゃくちゃ強かったんです。というよりも、当時、日本の東国、今で言えば関東東北にはめちゃくちゃ優れた軍事力と軍事技術があって、それで防人には東国の兵士たちが選ばれて派遣されたんです。東国のいなかものなら犠牲になってもかまわんだろう、というので東国から集められたわけではありません。東国がなぜ強かったのかっていうのはまたあらためてお話したいと思っております。 防人っていうのは、戦争に負けてあわててつくられた制度ではないんですね。白村江の戦いの18年くらい前に大化の改新っていう政治改革があって、その時の、当時の孝徳天皇っていう天皇が公約した制度改革の中に防人の設置っていうのが入っていました。つまり、白村江の戦いっていうのは起こるべくして起こった戦争っていうことなんです。外国から国を守る、国家防衛っていうのは、当時の日本の大きなテーマのひとつでした。 そういうことでできた防人なので、防人は、かなりの制度でした。税の免除制度もありましたし、任務から戻れば数年間は本国の軍役、つまり兵士の仕事につかなくていい、という特典もありました。任務先で定住したいというときには土地も与えられたといいます。 万葉集っていう奈良時代にできた歌集があって、4500の和歌がのっていて、20巻構成なんですけれども、その中に防人自身あるいはその家族が詠んだ和歌が98首載っています。さきもりうたっていって、哀愁と悲しみに満ちているというので、とても人気があります。 ただですね、防人は、決して脅かされて、たとえば上からの命令が絶対で、そうでなければ一家皆殺しにされるとかなんとかそういうことで任務についていったわけではないんですね。それぞれの事情があり、思惑もあり欲もあり、義理も人情もあって、だから万葉集の防人歌はいいわけで、それをたとえばですね、権力を批判する歌がこの時代から日本にはあった、そこが素晴らしいんだっていう目で見ていたら損をするっていうことです。