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2017年9月9日、仏教公開講座。金沢市 廣誓寺にて。 講演・坐禅等の予定表:https://bit.ly/2qxD56 Twitter: / muhonoelke 活動支援: https://bit.ly/3JXT7tj 資料――「悟り」の英訳: Satori Enlightenment Awakening Realization Manifestation 禅には見性ということがある。これは悟りのまたの名で、霊性的直覚である。これは隻手の声なら隻手、無字なら無字、そのものに成りきって、三昧の境地に入ったとき、自然に感得するところのものである。三昧はただ無我夢中になるということでない。その中に自覚――霊性的自覚がなくてはならぬ。 悟りは悟った者のみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの認証をも必要としないものである。―鈴木大拙『金剛経の禅、禅への道』他 私の宗旨は悟りも要らぬ、悟りもない。小声で「悟りもない」と云ふのではない。大きな声で「悟りもない!」と云ふのである。―澤木興道『禅談』 ただ静かに坐禅する―このことだけが、今や私に残された、ただ一つの道でした。 まだ初秋とはいえ、すっかり秋らしくなってしまった信州の寺の、ガランとした僧堂の中に、外からさしこむ月光を受け、しげくすだく虫の声を聞きながら、ただ一人坐禅していたあの夜のことを、今でも思い出します。 それは何か大変すばらしいことを思いついたような派手な快感ではありませんでした。むしろただ求めにもとめたかけずりまわり、疲れはてたあげく、「まあひとやすみ」とホコをおさめて静かに坐ったとき、かえってそこに何か、ホノボノとした安らぎを、――もし「感覚以上の感覚」「覚知以上の覚知」といったものがありとすれば、そんなもので、わずかにそれを見出したとでもいえましょうか。 …〈中略〉…今にして思えば、たしかこのころから私には、そこに何か、あるものが熟しつつあったようです。それから一、二年たち、舞台は信州から京都にうつり、京都でも臘八接心のあるとき、本師老師は 「仏法は無量無辺。小さなお前の思わくを、物足りさすものであろうわけがない」と。 ――まさにこの言葉こそ、青天の霹靂、迅雷のごとく、私の身内(しんない)に轟(とどろ)きわたり、にわかに通じられた電流によって、従来の私はひっくりかえされてしまいました。 …〈中略〉…「坐禅はサトリを『手籠め』にしたいという『思い』の手段となるべきではなく、かえって、坐禅とは本来『手放しの身構え』である。それでこの『無量無辺』を 『無量無辺』ならしめる『手放しの身構え』に、ただまかせてゆくことが坐禅というものであり、また真実の自分というものでなければならない。つまり『私が坐禅をする』のではなく、『坐禅で私をする』ことこそが、真実というものなのだ」と。―内山興正『自己』 諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化(戯)するに、端坐参禪を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。―『弁道話』 問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして、徒に如來の福分を費やさんより、在家人に隨ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん。 答て云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強て道心を發し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分かたず、齊しく如來の福分を與ふとは見へたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見へず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く發し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆な佛性あり。徒づらに卑下すること莫れ。―『正法眼蔵随聞記1-16』 しかあれば我れらも賎(いやし)く拙なしと云ふとも、發心修行せば決定得道すべしと知て、即ち發心するなり。古へも皆な苦を忍び寒にたゑて、愁ひながら修行せしなり。今の學者苦るしく愁るとも只しひて學道すべきなり。―『随聞記4-6』 示して云く、大慧禪師、ある時尻に腫物出ぬれば、醫師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。醫師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禪すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。 ―『随聞記5-16』 學道の人も、初めより道心なくとも、只しひて佛道を好み學せば、終には實の道心も起るべきなり。 ―『随聞記6-7』 今生に發心せずんば何の時を待てか行道すべきや。今強て修せば必ずしも道を得べきなり。 ―『随聞記6-16』 示して云く、大慧禪師の云く學道は須く人の千萬貫の錢を債(お)ひけるが、一文をも持たざるに、乞責らるヽ時の心の如くすべし。若しこの心あれば、道を得ることやすしといへり。信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀擇を嫌ふと。揀擇の心だに放下しぬれば、直下に承當するなり。揀擇の心を放下すると云は、我をはなるヽなり。佛道を行じて代りに利益を得ん爲に、佛法を學すと思ふことなかれ。只佛法の爲に佛法を修行すべきなり。縱ひ千經萬論を學し得て、坐禪の床を坐破するとも、此の心なくんば佛祖の道を得べからず。只すべからく身心を放下して、佛法の中に置て、他に隨ひて舊(旧)見なければ、即ち直下に承當するなり。―『随聞記5-18』 (古人云く、 霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。) 無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度度聞ぬれば、霧露の中に行が如く、いつぬるヽとも覺へざれども、自然に衣のうるほふが如くに、良人の言ばをいくたびも聞けば、自然にはづる心も起り、實の道心も起るなり。―『随聞記5-15』 知るべし行を迷中に立てて、証を覚前に獲ることを。…〈中略〉… 参学の人、且く半途(迷)にして始めて得たり、全途(迷)にして辞すること莫れ。―『学道用心集』 自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。 迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。…〈中略〉… 佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。―『正法眼蔵・現成公案』 此の宗は悪人を手本となして善人を摂するなり。聖道門は善人を手本となして悪人を摂するなり。 ―法然上人 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。 ―『歎異抄』 薬あればとて毒をこのむべからず。―『歎異抄』 松影の 暗きは月の 光かな #坐禅 #青い目の禅僧 #ネルケ無方