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師教聞思の徹底:法然から親鸞への教学展開に関する考察 エグゼクティブサマリー 本稿は、三明智彰氏の論考「師教聞思の徹底」に基づき、法然の『選択集』「二行章」で示された教えが、親鸞の『教行信証』においていかに深化・展開されたかを分析するものである。中心的なテーマは、称名念仏における「不回向」の義の再解釈と、それに伴う「本願力回向」という親鸞独自の教学の確立である。 法然は、善導の教えに基づき、称名念仏を阿弥陀仏の本願の行(正定業)と位置づけ、衆生が格別に功徳を振り向ける(回向)必要がない「不回向」の行として示した。これにより、いかなる衆生も時と場所を選ばず往生が可能になるとした。 しかし親鸞は、この「不回向」の教えが「回向は不要だが、してもよい」「名号に回向が含まれているから、自らの回向は不要」といった、依然として衆生側の自力的な意識(自利各別心)を残す形で誤解される危険性を見抜いた。親鸞は善導の「六字釈」を深く掘り下げ、「発願回向」とは衆生から仏へ功徳を振り向けることではなく、逆に「如来がすでに発願して衆生の行を回施したまう心」であると、回向の方向性を180度転換させた。 この解釈により、往生のための行と信はすべて阿弥陀仏から与えられる「本願力回向」によるものであると明らかになる。親鸞は、衆生の心根を「有漏の心」「自利各別の心」と徹底的に見据え、自力による回向の不可能性を断定した。さらに、行(専修・雑修)と心(専心・雑心)を厳密に分類・批判し、たとえ称名念仏(専修)を行じていても、その心が自力(雑心)に依るならば、それは真実の報土への往生の因とはならず、方便化身土に至るに過ぎないと断じた。 この徹底した真仮分判は、他者を批判するためのものではなく、衆生を真実の救済に至らしめようとする如来の大悲の願心そのものを明らかにしようとする営為である。親鸞の教学は、師である法然の教えを深く聞き、思考し抜く(師教聞思の徹底)ことによって、その本質を闡明したものであることが示される。 -------------------------------------------------------------------------------- 一、 法然の『選択集』「二行章」における教示 法然は『選択集』「二行章」において、善導の解釈を依據とし、浄土往生の行を「正行」と「雑行」に分判し、雑行を捨てて正行に専念すべきことを勧めた。この教示は、後の親鸞の思想展開における重要な出発点となった。 1. 正行と雑行の分判と正定業 五正行: 往生浄土の行として五種の正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃歎供養)が示される。 正定の業: 五正行の中でも、特に称名念仏を「正定の業」(往生が決定する行)とする。 理由: 称名念仏が阿弥陀仏の本願に順じた行であるため。法然は「彼の仏願に順ずるが故に」と述べ、称名念仏は衆生のはからいを超えた「彼の仏の本願の行」であると明示した。これを修する者は「彼の仏願に乗じて必ず往生を得る」とされる。 2. 正行と雑行の得失(五番相対) 法然は善導の文の意を汲み、正行と雑行の得失を五つの対比(五番相対)によって明らかにした。 対比 正行 雑行 第一 親疎対 心が常に仏に親近し、憶念が絶えない。 心が常に間断し、仏と疎遠である。 第二 近遠対 仏に近く、仏と縁が近い。 仏から遠く、仏と縁が遠い。 第三 無間有間対 憶念が断えないため「無間」である。 心が常に間断するため「有間」である。 第四 不回向回向対 別に回向しなくても、自然に往生の業となる。 必ず回向して初めて往生の因となる。 第五 純雑対 純粋に極楽往生のための行である。 人天や他の浄土にも通じるため雑である。 特に重要なのは「不回向回向対」と「純雑対」である。 不回向回向対: 正行(称名念仏)は、「南無阿弥陀仏」の六字に「帰命」(信)と「発願回向」と「其の行」(行)が具足しているため、衆生が別に回向しなくても自然に往生の業となる(不回向)。 雑行は、衆生が**「必ず回向を用ふるの時」にのみ往生の因となる**。これは、回向するいとまなく死を迎える衆生を救えないという限界を持つ。一切衆生を平等に救うためには、いかなる状況でも成り立つ「不回向」の行が必要である。 純雑対: 正行は純粋に極楽往生を目指す行である。 雑行は人天や三乗、十方浄土にも通じる行であり、質的に純粋でない。この質の問いは、行ずる者の心根の問題へとつながっていく。 3. 正念の獲得と雑縁からの自立 善導は、称名念仏を畢生続ける者は「十即十生、百即百生」(十人行けば十人、百人行けば百人ながら往生する)と述べ、その理由を以下のように示した。 「外の雑縁なし、正念を得たるが故に、仏の本願と相応することを得るが故に、教に違せざるが故に、仏語に隨順するが故なり。」 正念の獲得: 称名念仏者は、人生の様々な縁(諸縁)が雑縁として機能しない「正念」(正しい精神生活)を得ることができる。これにより、雑縁に乱され動かされることのない人間の自立が示される。親鸞はこれを和讃で「往生の信心あるを正念を得とはいふなり」と解釈した。 雑行の失: 対照的に、雑行を修する者は往生が極めて稀であり、その理由は「雑縁乱動す正念を失するに由るが故に」とされる。雑縁は往生の正行を妨げ、人間から往生という大きな利益を失わせる。 法然はこれらの論拠に基づき、「いよいよ須く雑を捨てて専を修すべし」と結論づけ、衆生の回向を必要としない純粋な行であり、人間を雑縁から自立させる称名念仏を専修するよう勧めた。 二、 親鸞による「不回向」の深化と「本願力回向」の開顕 親鸞は、法然が示した「不回向」の義をさらに深く掘り下げ、その真意を「本願力回向」として体系化した。これは、衆生側の自力的な解釈を徹底的に否定する、教学上の重大な展開であった。 1. 法然の「不回向」説への誤解 法然の「別に回向を用いざれども自然に往生の業となる」という教えは、衆生側で以下のように誤解される危険性があった。 1. 積極的自力: 「格別に回向しなくてもよいが、回向したいならしてもよい。むしろする方が良い」と考え、自らの回向の思いを込めて称名するあり方。 2. 消極的自力: 「名号に発願回向が具わっているから、自分から格別に回向する必要はない」と考え、自らの意志で回向を差し控えるあり方。 これら二つの見解は、回向の方向性を「衆生から如来へ」と捉え、自らが回向するかしないかという自力的な意識を内包している点で共通する。親鸞はこれを「人天菩薩等の解行雑す」と批判した。 2. 善導の「六字釈」の再解釈と回向の方向転換 親鸞は、問題の核心が善導の「六字釈」における「発願回向」の解釈にあると見抜いた。『教行信証』「行巻」において、親鸞は次のように解釈し直した。 「帰命は、本願招喚の勅命なり。**発願回向と言ふは、如来已に発願して衆生の行を回施したまふの心なり。**即是其行と言ふは、即ち選択本願是なり。」 この解釈は画期的であった。 帰命: 衆生が仏に帰依することではなく、仏が衆生を招き喚ぶ命令(勅命)である。 発願回向: 衆生が発願し回向することではなく、如来がすでに衆生を救うと発願し、その行(功徳)を衆生に施し与える心である。 これにより、回向の主体と方向が「衆生→如来」から「如来→衆生」へと完全に逆転した。これが親鸞の説く「本願力回向」の根幹である。 3. 衆生の自力回向心の徹底的否定 この解釈に基づき、親鸞は衆生が自力で回向することの不可能性を徹底的に論じた。 行における不回向: 称名念仏は「凡聖自力の行に非ず。故に不回向の行と名づくるなり。」 信における不回向: 往生を願う心(欲生心)もまた、「大小凡聖定散自力の回向に非ず。故に不回向と名づくるなり。」 親鸞は、煩悩にまみれた衆生には「真実の回向心なし。清浄の回向心なし」と断言する。衆生に真実・清浄の回向心がないからこそ、如来がその大悲心によって、利他真実の心(欲生心)を衆生に回向するのである。 三、 雑行とそれを修する心の批判的吟味 親鸞は、行の形式だけでなく、その行を修する者の「心根」を鋭く問い、真実信心に至らない心のありようを「自利各別」という言葉で特徴づけた。 雑行の質: 雑行は「有漏心」(煩悩に汚れた心)から生じ、法性(真理)に順じない。それは「顛倒」し「虛偽」であるため、「不実の功徳」と呼ばれる。多大な労力(用功は至て重く)を払っても、得られる果報は偽り(獲る報は偽なり)である。 真実信心ならざる心: 親鸞は『化身土巻』において、真実でない心を様々な言葉で表現するが、その特徴は「自利各別」に集約される。 「諸機の三心は自利各別にして利他の一心に非ず。」 「定散の心は、即ち自利各別の心なり。」 「浅とは定散自利の心、是なり。」 たとえ名号を称えていても、その心が「自利の一心」や「罪福を信ずる心」(善行で福を得、悪行で罪を恐れる心)であれば、それは名号を「己が善根とする」自利各別の心に他ならない。 真実信心とは、この「自利各別」の心と対極にある、如来から回向された利他真実の心である。 四、 行と心の真仮分判の徹底 親鸞は、法然の教えを基盤としながら、行と心の両面から真実(真)と方便(仮)の区別(真仮分判)を極めて厳密に行った。 1. 雑行・雑修・専修の区別 親鸞は、行のあり方をさらに細かく分類した。 雑行: 五種の正行以外の諸善万行。 専修: 五正行、または称名念仏一行に専念すること。 雑修: 正行と助行(正行を助ける行)を兼ねて行うこと。 2. 行と心の組み合わせによる批判 親鸞の分析の真骨頂は、外面的な行の形態(専修か雑修か)だけでなく、その内面的な心(専心か雑心か)を問題にすることにある。 専心: 回向を専らにする心、あるいは五正行に専念して二心なき心。 雑心: 定善・散善の心が雑じる心。自力の心が混じること。 これにより、以下のような複雑な組み合わせが生まれ、そのすべてが批判の対象となる。 雑行雑心、雑行専心 専行雑心 正行の中の専修専心、専修雑心、雑修雑心 親鸞は、これらの自力にもとづく行信はすべて「辺地胎宮懈慢界の業因なり」と断じる。たとえ極楽に生まれても、仏・法・僧の三宝を見聞する利益も、光明に照らされ護られる現生の利益もないとされる。 五、 真仮批判の究極的意図:如来の大悲と知恩報恩 親鸞による徹底した真仮批判は、単なる学問的な分類や他者への排斥を目的とするものではない。その根底には、衆生を真実の救いへと導こうとする如来の広大な恩徳を明らかにしようとする意図がある。 如来の願心に基づく批判: 仏土に真(報土)と仮(化土)があるのは、如来の願に真実(第十八願)と方便(第十九願・第二十願)があるからである。この真仮を知らなければ、「如来広大の恩徳を迷失する」。したがって、真仮批判の徹底こそが、如来の大悲に対する知恩報恩の行となる。 「専修に異あり」—隠れた心の問題: 親鸞の批判は、雑行から正行へ、さらに正行の中でも「専修にして雑心なる者」へと向かう。外面上は同じ称名念仏を行じていても、その心根が「罪福を信ずる心」に基づく自力であれば、それは真実ではない。この「隠れたる心との対決」こそが、廃立の至極である。 衆生の現実相への悲歎: このような徹底した自己批判と内省を通して、親鸞は衆生の救われ難い現実の姿を深く見つめる。 この衆生の現実に対する深い悲歎こそが、親鸞の厳格な教学的営為の源泉であり、師である法然の教えを極限まで聞き、思考し抜いた「師教聞思の徹底」の結実であると言える。