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北九州市八幡西区木屋瀬(こやのせ)は、北九州市の南西端に位置します。江戸時代、豊前小倉の常盤橋を出立し、小倉藩から福岡藩に入り、筑前黒崎宿に着きます。黒崎宿の次が木屋瀬宿です。 黒崎宿は「黒崎」を、黒崎宿と木屋瀬宿間の街道は「曲里」「石坂」をご覧ください。 木屋瀬宿は、そのまま直方に南下する長崎街道と、遠賀川を渡って、博多・唐津に到る唐津街道の赤間宿への追分宿でもありました。また、遠賀川中流の水運の中心地として、木屋瀬は栄えました。 長崎街道である県道280号を南に進み、九州自動車道の先で木屋瀬に入ります。江戸時代に築かれ、水田を灌漑する岡森水路が流れています。その横が木屋瀬宿東構口跡で、木屋瀬宿の入口です。その反対側に江戸あかりの民芸館があります。 長崎街道筋が左カーブする右手前に広場があり、その前の細い道を右に入って行くと道は広くなります。その先の石段を昇ると、扇天満宮があります。 室町時代応仁の乱後、連歌師宗祇が筑紫紀行の際、木屋瀬に泊まりました。その夜、天神と名乗る男から扇をもらう夢を見ました。その後、大宰府で実際に扇をもらったことから、扇天満宮の名が付けられたといわれています。扇天満宮の祠の右手に、1852(嘉永5)年、扇天満宮の由緒を記した伊藤常足の石碑が建てられました。 扇天満宮の西側を、遠賀川沿いの県道73号が通っています。県道の横に鳥居が立っていて、その南側の県道上に二本の大銀杏が立っています。扇天満宮の神木です。1917(大正6)年土手改修の際、扇天満宮は北の土手の外に移されました。残された神木は県道の中央に立っています。 扇天満宮から戻る途中に、カーブミラーのある人ひとりが通れる道が右手にあります。入って行きますと曹洞宗永源寺の山門の前に出ます。境内に右にクスノキ、左にイチョウの大木があります。その間に裏門が見えます。 山門を出て小径を塀沿い南に行きますと永源寺の裏門があります。木屋瀬宿本陣の門が移築されています。ここから県道上の二本の大銀杏を真近に見ることができます。 永源寺から街道筋に戻り、南の次の四つ角を左に入ります。左手に浄土真宗の西元(さいがん)寺があります。西元寺の先の右手に須賀神社があります。須賀神社の祇園祭は7月に行われます。室町時代に祇園社が勧請されましたが、乱世で荒廃していたのを、江戸時代、木屋瀬の豪商伊藤宗伯が再建しました。 街道筋に戻り南に向かいます。左側にレンガ塀があります。そこが郡屋(家、ぐんや)跡です。郡内の村役人と福岡藩の役人の集会所です。 この先が木屋瀬宿の中心地で、北からは街道は逆「く」の字に曲がります。戦闘時の防御を考慮した町づくりになっていました。手前から曲がった先まで道の向こう側は、2001(平成13)年オープンした北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館になっています。江戸時代、藩主が宿泊する本陣である御茶屋や脇本陣の町茶屋がありました。反対側の左の角には問屋場(といやば)がありました。人馬継や飛脚・荷物を扱う場所でした。 長崎街道木屋瀬宿記念館は、宿場の史料を展示したみちの郷土史料館と角を曲がった先の、かってこの地にあった芝居小屋大正座を模したこやのせ座から構成されます。 木屋瀬宿場踊りは8月のお盆の間に踊られますが、11月の筑前木屋瀬宿場まつりでも長崎街道木屋瀬宿記念館前で踊られます。享保年間(1716-36)から、手甲脚絆に男は三度笠、女は妻折笠の道中姿で踊ります。 街道筋を進むと左に入って行く道があり、入って行くと浄土宗長徳寺があります。かっては天台宗で、1235(嘉禎元)年、鎮西上人(聖光房弁長、1162-1238)開基の浄土宗寺院となりました。鎮西上人は平安時代末期、筑前国遠賀郡香月の領主香月氏の一族として生まれ、法然上人の教えを継ぐ浄土宗の第二祖と呼ばれます。 長徳寺には、江戸時代に悲劇の豪商と呼ばれた伊藤小左衛門の本家筋に当たる、木屋瀬の豪商伊藤宗伯らの墓があります。木屋瀬から博多に出た伊藤小左衛門の二代目、伊藤小左衛門吉直の博多浜口町の屋敷に役人が踏み込み、密貿易の罪で、1667(寛文7)年37人が処刑されました。 街道筋に戻り南に進みます。県道280号は右に行き、中島橋になります。長崎街道は県道を横切って南に進みます。県道の南、すぐに左に入る小径があります。左折し、次の角が代官所跡になります。代官以下3~5人が常駐し、年貢の取立てなどを行っていました。 街道筋に戻り少し南に行くと、右側に船庄屋跡(梅本家)があります。江戸時代、木屋瀬は年貢米の集積場で、輸送の権利を持った川艜を束ねました。江戸時代末期の建物です。 梅本家のすぐ南に愛宕山護国院があり、奉納されていた「板絵著色木屋瀬宿図絵馬」は、麻生東谷(とうこく)が、明治初期の木屋瀬宿の様子を描いています。いのちのたび博物館に保存されています。 放送作家伊馬春部(1908-1984)は、生家を寄贈しました。その旧高崎家住宅は、江戸後期の宿場町の商家建築として常時一般公開されています。2階の梁に墨書銘があり、建築時期は1835(天保6)年と考えられます。高崎家は櫨(はぜ)の実から蝋(ろう)を絞る絞蝋(こうろう)業を、明治に入ってからは醤油醸造業を営んでいました。 旧高崎家の南の右手に、村庄屋跡(松尾家)があります。松尾家は安政年間、木屋瀬村全体を統括する村庄屋を勤めました。江戸時代末期の建物です。 南に進むと、木屋瀬宿西構口跡です。東構口の間約900mが木屋瀬宿です。そこに追分道標があり、右赤間道、左飯塚道と刻まれています。これはレプリカで、実物はみちの郷土史料館にあります。 西構口から西の遠賀川に向かいます。木立の間を通ると、右手に興玉(おきたま)神社があります。古来より街道や村境を守り、幸の神、庚申興玉神として崇敬されています。土手の県道73号を越えると遠賀川です。すぐ先に渡し場がありました。