У нас вы можете посмотреть бесплатно 数列24:モンモールの問題《東工大2004年後期》 или скачать в максимальном доступном качестве, видео которое было загружено на ютуб. Для загрузки выберите вариант из формы ниже:
Если кнопки скачивания не
загрузились
НАЖМИТЕ ЗДЕСЬ или обновите страницу
Если возникают проблемы со скачиванием видео, пожалуйста напишите в поддержку по адресу внизу
страницы.
Спасибо за использование сервиса ClipSaver.ru
明けましておめでとうございます。ようやく数列24題撮り直し終わりました。遅くなり申し訳ありません。 この前、読んだ本にこんなことが書かれていました。 悲しいかな、複雑な方がよく売れる。 シンプルはありがたみを感じられないが、シンプルが最も価値がある。と。 複雑さとシンプルさの対比になって書かれていたわけですが、複雑な方が人々を惹きつけるし、自分でコントロールできているという安心感が持てるのに対して、シンプルは無知との区別がつきにくい。だからシンプルは魅力的に感じないし、売れないと。 だが、複雑さによって、後に付随するものの多くは、知的好奇心を刺激するだけ、時間を無駄にするだけ、惑わせたり感動させたりするだけの不必要な要素なのだ。と。 この内容が僕にぶっ刺さったわけですが、これは僕が普段授業に対して思っていることが腑に落ちるきっかけとなりました。 予備校の授業では、包絡線とか外積とか正射影ベクトルとか傘型分割とか、そういう複雑なものを扱う方がウケがいいわけですが、本当はそんなものいらないって講師たちは気づいてます。でも、シンプルなものだけを教えると無知との区別が付かず、その授業は魅力的じゃないわけです。 今回の漸化式を解く部分やテイラー展開(マクローリン展開)の話にしても、本当は不必要な要素で、知的好奇心を刺激するだけ、時間を無駄にするだけですが、授業を受ける側は何か特別なことを教わった気になり満足します。 昔、英語の先生の話ですが、「あの人は簡単なことを難しく教えるから人気がある」と聞いたことがありますが、そういうことなんだなあ、と腑に落ちました。 授業する側は、必要なものだけをシンプルに教える方が合格につながるのに、無駄な知識を教える方が生徒は満足してくれる、しかし無駄知識を復習したり裏技にとらわれて合格からは遠ざかる。 ここで必要となるのは、いらないものをハッキリいらないと言うことなのだと改めて思いました。 以下は適当な雑談になります。 先日、子供のクラス会というものに参加しました。子供の同級生の父親は、僕が大学時代に東京個別指導学院で働いていたときに指導した生徒でした。大学生になると同時に講師にもなっていたので後輩講師でもありましたが。僕より遥かにしっかりした父親をやっていて、ろくに働きもせずグータラやってる自分が何だか情けないというか恥ずかしかったです。 そのクラス会でも、子供たちはフルーツバスケットを楽しんでいて和みました。 これを書いているのは2024年12月22日なのですが、年末年始のこの時期はとても幸福度が高いです。その理由を考えてみたのですが、世の中が働いていなくても許してくれる雰囲気というか、休暇を楽しもう、ゆっくり過ごそう、という空気感だからだと思います。心置きなく休める時期というのはこの時期くらいではないでしょうか。いやまあ、今日も冬期講習で授業してきたわけですが。 逆に普段、平日昼間は世の中が慌ただしく心置きなく休むことさえできません。 あと、昨日(12月21日)子供が寝た後、少し遠くまで自転車で買い物に出かけたのですが、昔よく行っていたラーメン屋さんが営業しているのをみて、店主の女将さんの年齢を考えると、いつ閉店してしまうかわからないと頭がよぎり思い切って立ち寄りました。 店の外の券売機で特製坦々麺を買おうとしていると「前、何食べた?初めて?」と女将さん(日本人ではないと思います)が店から出てきて、「いつも坦々麺食べてました。多分15年ぶりくらいです」と伝えると「えー!!うち営業19年」とすごく驚いていました。カウンターで食べている僕を見て「何となく思い出してきた」と女将さんも旦那さんもおっしゃっていました。ラーメン屋そのものに入ったのも数年ぶりでした。そのお店の並ぶ商店街のほとんどはこの15年で入れ替わっていました。 こんなに幸せな年末年始を過ごしておりますが、学生時代は本当に常にもがき続けていたと思います。当時は毎日が苦しかったです。早く家を出たい、自分が何をしたいのかわからない、この先の人生に明るさを全く見出せないと思っていました。ただ、苦しさというのは、見聞きで学べるものではなく、自ら体験しないと決して学ぶことができない大切なものなのだと今なら思います。そして、自分が何をしたいか、というのは本気で考えに考えぬかないと、気づいたらときには他人の人生を生きることになる、時間の切り売りで人生が終わると感じます。 二度目の大学受験の頃は、BUMP OF CHICKENの「Arrows」という曲をよく聴いていました。今でも大好きな曲です。 そんな絶望からどうやって今の幸福な現在に至るのか考えてみると、大学生になって講師のアルバイトをして誰か生徒の役に立っていることを実感して、講師として学校や予備校で仕事をする中で自分の稼ぎで一人暮らしを始めて、結婚して世帯を持って家を買って、株(sp500)で収益を得て自らの時間を使わなくても動画で誰かの役に立てている感覚を得て、と主にこの4段階を重ねて、人生の飢えから幸福へと上がって来た気がします。自立というか、自由に生きることが許される状況を自分で作っていくことで幸福度は増していると思います。 僕は一度進学した大学を中退して、大学受験をし直したのですが、どこの大学に入ったかでは幸福度は正直変わらないと感じます。現役時も二度目の受験においても、受験する時点では自分にとって第一志望でしたが、そんなにこだわる必要があったのだろうかというのが今の本音です。どこの大学を卒業したか、だけでは他人の役には立てないです。何か能力を身につけないと誰もお金を払ってくれません。 そして最近、強く感じるのは、10年も20年も全力で仕事に打ち込むのは難しいということです。全速力では走り続けられないし、マラソンにしても息がもたないです。体力的にもモチベーション的にも、勢いを数十年も保つのは不可能だなと感じます。いや、打ち込むこと以外に幸福があることに気づくというか、数十年打ち込み続けなくても、ある時を境に満たされる、という表現が正しいかもしれません。 もっと言うと、今すでに手元にあるものに満足することが幸せのコツで、それができないならいつまで経っても不幸のままです。 僕は明日生きていることが自分の人生のボーナスステージのように感じています。それくらい幸福ですし、死ぬ前にあと一題だけ、という心境で撮り直しをしていきます。 明日死んでも僕の人生は幸福だったと言い切れます。子供達は困るでしょうけど。